2022年10月02日「怒りに支配される前に」
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怒りに支配される前に
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- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章21節~26節
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聖書の言葉
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」マタイによる福音書 5章21節~26節
メッセージ
本日の聖書箇所でイエス・キリストが話題にしているのは怒りである。怒り!怒りに無縁な人などいるだろうか。表にだす出さないはともかく、怒りを抱くことはよくあることではないか。本日の聖書箇所では、「怒り」が腹を立てる、反感、兄弟に馬鹿という、と言い換えられている。心で思うこと。言葉にすること。さらに怒りは行動になってあらわれる。怒りが行動になって表れるものの最たるものが人殺しである。
殺人は悪。これは言うまでも無い。しかし、イエスは「本当にそれでよいのか?」と問う。それは言い換えれば20節でいわれていた律法学者やファリサイ派の人々にまさる義とは何かということ。殺してはならない。この教えについていえば、私たちもはい、そうですと言えるだろう。殺していない。それで良いのか、ということである。
そこで、22節にはこうある。「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。まず、このところで注目するのは「兄弟に腹を立てる」こと。そしてその人は裁きを受ける。人殺しをしたのと同じだというのである。もちろん、この裁きは世俗の宗教の裁きではない。神の裁き。言い方を変えれば、神からみれば兄弟に対して腹を立てるものは人殺しをする等しいのだというのである。
ある人は、この愚か者や馬鹿という言葉は呪いの言葉ではないかといっている。そうなると、あなたは神から呪われている!そのように断罪する人。そのように言う人が、裁かれる。なるほど、確かにこうした思いは殺人に等しいのかもしれない。なぜならば、この世からいなくなって欲しいというに等しいからである。しかもそれは、腹を立てるというところから始まるのである。
こうした心のありかたは、非常に現代的ではないか。インターネットの時代。ネット上の書き込みが原因で自殺する人が時折ニュースになる。テレビにでる。その振る舞いを人々がたたく。気に病んでしまい、自殺に追い込まれる。まさに腹を立てることが殺人へと向かうのである。もちろんその人は「私は直接、手を下していない」というかもしれない。しかし、それはもう殺人なのである。
このような殺人を主イエスは戒める。そして、単にそうした態度をやめなさいというのではない。このところでイエスはなにを言わんとしているのか。それは和解である。根本的な解決をするには和解しかない。仲直りすること。馬鹿、といわなくても良いようにすること。そのことを主イエスは伝えた。
23節からはこの仲直りについて。祭壇に供え物をする途中に、、兄弟が自分に反感をもっていることを思い出したら、まず、なによりも先に仲直りをするようにと主イエスは言われたのである。もちろんこれは礼拝を軽んじて良いということではない。和解の大切さを教えているに過ぎない。自分が他人に呪いをかける罪を犯す前に、自ら手を差し伸べよう。キリストがあなたに手を差し伸べたように。