真実な結婚
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章27節~32節
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聖書の言葉
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」マタイによる福音書 5章27節~32節
メッセージ
本日の聖書箇所でイエスが取り上げているのは十戒の第七戒、「姦淫してはならない」。このところでイエスは性欲・肉欲をテーマにしていると言っても良い。性欲。やっかいなものである。世間を賑わせているニュースの多くの根底にはこの性欲がある。
しかしながら、性というのは本来は良いものである。神は人を創造された。様々なものを創造された。最後に人間を造った。その時に神は、極めて良かったと言われた(創世記1章27節)。この極めて良いとよばれた世界に、私たちの人間も、そして性も含まれている。しかしながら、この祝福された状態に人間の罪が入り込んだ。罪を犯した時、最初の人間のアダムとエバはお互いが裸であることを知り、腰を覆ったと聖書は記す。それは隠すということである。隠すということは罪の一つの側面だ。人間は隠したがる。そこに罪が入り込む。性の問題は罪と結びつく。だからこそ、隠しがちなのかもしれない。
聖書を読むと、イエスがこうした性について否定したことはない。このお方が最初に行った奇跡は結婚式の場である。ヨハネによる福音書の2章に記されている奇跡は、結婚式の最中に酒がなくなってしまったことに端を発する。そこで、イエスが水をワインに変えた。それをみんなが喜んだという奇跡である。結婚を主は祝福された。そこには当然、男女の性もまた祝福されたということである。そのことを忘れてはならない。教会こそ、正しい性のあり方、結婚のあり方について人々に知らせる責任があるのではないか。
そして性を持つのは人間の特徴でもある。他の生物にも性による区別があるが人格的な交わりにまでこの性を用いるのは人間だけである。この人間である私にとって、信仰を持つものにとって、この性的なことになんらかの痛みを抱えているとしたら、それは信仰にも影響を及ぼすのである。肉体と精神は切り離すことができない。そして、信仰は、私たちの心も、体も全てを覆うものなのである。
だからこそ、主イエスはこの性的な問題、肉体的な問題について、切り込む。ここに、健全さを失うことがないように。祝福された歩みを送って欲しい。それが、主イエスの願いなのである。山上の説教全体に共通することは、まことに愛情深いお方、イエス・キリストがこの御言葉を私たちにあたえてくださったということである。
結婚。これは祝福なのである。そして、その関係を壊すことは、これは地獄になげこまれるようなものである。愚かなことなのである。まず、妻との関係を第一にするように。そのように主イエスは言われたのである。結婚とはこれは契約であるということ。この時代、女性が軽んじられていた。その時代にあって妻を大切にしなさいという教えは新鮮な響きをもっていた。しかし、これは神が私たちを大切にしてくださることを教えるものでもある。結婚が契約であるように信仰もまた契約である。神との契約に入れられた私たちは、神との間柄をまず第一にする。お互いに愛し合うように、神を愛する。そのことの幸いをイエスは伝えている。