2022年10月16日「死ぬことの意味」
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死ぬことの意味
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
詩編 90編1~17節
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聖書の言葉
主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から大地が、人の世が、生み出される前から世々とこしえに、あなたは神。
あなたは人を塵に返し「人の子よ、帰れ」と仰せになります。千年といえども御目には昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。あなたは眠りの中に人を漂わせ朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい夕べにはしおれ、枯れて行きます。
あなたの怒りにわたしたちは絶え入りあなたの憤りに恐れます。あなたはわたしたちの罪を御前に隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。わたしたちの生涯は御怒りに消え去り人生はため息のように消えうせます。人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれてあなたの憤りをも知ることでしょう。生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。
あなたがわたしたちを苦しめられた日々と苦難に遭わされた年月を思ってわたしたちに喜びを返してください。あなたの僕らが御業を仰ぎ子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。わたしたちの神、主の喜びがわたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きをわたしたちのために確かなものとしわたしたちの手の働きをどうか確かなものにしてください。
詩編 90編1~17節
メッセージ
本日は召天者記念礼拝。テーマは人の死について。
死を考える上で覚えておきたいのは神は命を与えるお方であるということ。私たち人間に「生きよ」といってくださるお方。聖書は語る。神は私たちに生きるようにといってくださるのだと。生まれた時から最後の一息にいたるまで生きるように。あなたは生きるだけの価値がある。生きてこそ、あなたなのだ。死はもう恐れる必要はない。神は、あなたの命を愛しておられるお方なのである。
命は神の御性質そのもの。神の神たるゆえんは決して死ぬことがない。死の力に支配されないというところにある。詩編90編の1-2節にこのようにしるされている。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。 山々が生まれる前から大地が、人の世が、生み出される前から世々とこしえに、あなたは神」。ここには神がどのような御方が記されている。大地が、人の世が産み出される前から、神は神なのだ。これは昔から神が存在するというのではなく、神は死ぬことのない御方だということ。
そしてこのことは言いかえれば、人はいずれみんな死ぬということ。神以外の存在は死ぬ定めにある。そして、聖書によれば、この神というのはただ不死だというのではない。それだけではなく、ありとあらゆるものの命の源。それが、神なのだ。私たちに命を与え、そして命を取られるお方。つまり、生きとし生けるものの生と死これを司っておられるのが神。
そして、聖書における命は、神との関わりの中にいるということ。ただ肉体の命があるだけではない。だからこそ、死とは神と離れること。それが、死の意味なのである。命のもとなる神から離れる、それが死。だからこそ、私たちは神から離れている限りにおいては、死に直面している。肉体として生きていたとしてもである。こうした死を「霊的な死」と呼ぶこともある。聖書によれば、この死をもたらすものが罪である。罪の報酬は死。聖書の中にある有名な言葉であるが、パウロという人は死をこのように定義したのである。
そして、私たちはこの罪を持つ存在。だからこそ、私たちの肉体に死が入り込んだと聖書は語るのである。これはつまり、死とは私たち人間がその最初から抱えていたものではないということ。後から入り込んできたものなのである。この罪の解決があってこそ、私たちは死を恐れなくてよくなる。そして死は私たちが有限な存在でること、まことに頼るべきお方は神であることを悟らしめる。そこに死の意味がある。
イエス・キリストは十字架により罪の問題を解決してくださった。復活により死に打ち勝たれた。キリストにあってもう死は絶対のものではない。このキリストにある命に私たちは生かされている。そのように生きる私たちは生涯の日を数えながら歩む。それは終わりの日に向かう歩みではなく、主との幸いな日々を数える一日一日なのである。キリストを信じること。死の根底にある罪を解決すること。それこそが死の準備ではないだろうか。