2022年10月23日「罪の赦しを願う祈り」
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罪の赦しを願う祈り
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 6章5節~15節
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聖書の言葉
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」マタイによる福音書 6章5節~15節
メッセージ
伝道礼拝では御一緒に主の祈りについての御言葉を学んでいる。本日は主の祈りの5つめの祈り。聖書でいえば12節「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」このところには、訳出されていないが冒頭に「そして」という接続の言葉がある。前の祈りに続いてということ。前の祈りは日ごとの糧を求める祈り。それは、一つのパンを求めるもの。つまりはお腹が満たされるということ。この祈りは、神が私たちに一つのパンを与えてくださる御方であるということを教えている。それはつまり、私たちは一つのパンであっても神から与えられて生きている存在であるということ。
信仰をお持ちの方は、食前に祈る方が多いと思う。これは聞いた話なのであるが、ドイツでは食前の感謝の祈りを定型の祈りで祈ることが多い。その祈りはこのような祈りだというのである。「主よ、私どもにどうしてもなくてはならぬものが二つあります。それをあなたのあわれみによって与えてください。日ごとのパンと罪の赦しを。アーメン。」人ごとのパンと罪の赦し。この二つを祈るように。それが、ドイツの長年の伝統なのである。この両者は共通している。それは与えられるものであるということ。日ごとの糧が神から一方的に与えられるように、罪の赦しも神から与えられるものである。
さて、このところでは、罪の赦しが負い目という仕方で語られている。負い目とはこれは負債ということ。借金。つまり、私たちは神に対して借金をしているということなのだ。負債を負うている。このことが罪の赦しとどのように関係するのかすこしわかりにくいかもしれない。罪が負債であるということは私たちはそれを背負っているということでありそしてそれを返さなければならないということ。このことを示すエピソードが、マタイによる福音書18章21節から記されている。それによれば、私たちの負債は膨大だ。一万タラントン。およそ六千億円。その六千億円を神は赦してくださった。返済不要にしてくださったのである。これは一方的な恵みである。
そしてこれには当然、犠牲が伴う。借金はなくなるわけではない。誰か他の人が犠牲を払って引き受けたということ。そして、この借金を背負ってくれた方こそイエス・キリスト。キリストは私たちの罪という負債のために神が支払って下さった代価である。身代金、という言い方が聖書の他の箇所ではなされているがそのように理解することもできる。
いずれにせよ、私たちは神から一方的に赦された。その赦された私たちもまた、赦すものとなる。しかし、マタイ18章のエピソードが記すように赦すことは簡単なことではない。もっとも、難しいものの一つである。頭では理解しても心で納得できないこと第一位ではないだろうか。だからこそ、主イエスは祈るようにと言われたのである。できないからといってやめるのではなく、祈るのである。そして、神が赦してくださったことを忘れるなと言われているのだ。
神の恵みを忘れないために。誰かを赦すことができるように。私たちは今日もこの祈りを祈る。