2022年10月30日「真実な誓い」

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聖書の言葉

「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」マタイによる福音書 5章33節~37節

メッセージ

教会生活を送る中で自らが誓約をしたり、他人の誓約を見守るということがある。教会における節目(牧師・長老・執事の任職就職)や個人の節目(洗礼や信仰告白、結婚)の際に誓約がなされる。それぞれが厳かな思いでこの誓約を行うのである。そのような私たちにとって、今日の聖書箇所はあれっと思うかもしれない。イエスが誓約を禁じているからである。 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている」。33節の御言葉。この言葉を巡ってはくつかの解釈が存在する。このところを非常に字義的にとって、一切の誓いを行わない。そのような理解をする人(クェーカー教徒やかつてのアナバプティスト)もいる。そのような態度を主は求めておられるのだろうか。そうではなく、このところで禁じられているのはあくまでも偽りの誓い。この偽りの誓いを理解するために大切なのはこの言葉の背景である。この言葉はレビ記19章12節を背景とする。「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない」。つまり、偽りの誓いとは神の名を汚すことであり、このところでイエスが禁じているのはこうした類いの誓いである。それは軽々しく神の名を持ち出すなということ。これは、神を軽んじる行為である。また、神の名をみだりに唱えてはならないという十戒の教えにも反する。つまり、このところで問題になっているのは誓約に対する誠実さ。軽々しく誓約するなということ。誓約自体が禁じられているわけではないことに注意をしたい。そして、誓約をしたからにはその誓約を守るのは当然のこと。

 言い方を変えれば、約束は守りましょうということ。これは子どもでもわかる教えのはずだ。しかしながら、大人は様々な理由をつけて約束を反故にしてしまう。そのような世界にあって、教会はそしてキリスト者は約束に忠実であろうとするのである。それはなぜだろうか。それは、神が約束つまりは契約に忠実なお方だから。神が誓われるという場面が旧約聖書に見られる。しかもその時の誓約は祝福を与えるという誓約である(申命記28:9)。この祝福に神が忠実である。だからこそ、私たちもまた誓いに忠実であらんとする。それはこの祝福の中にとどまるということを意味する。もちろん、私たちは誓いを果たすことができない弱さがある。そのような時にこそ、契約に忠実な主の姿に思いを向けつつ、信仰生活を歩むのである。

 私たちにとって身近で大切な誓約は洗礼・信仰告白・加入の時行った誓約。その中で「あなたは、自己の最善を尽くして教会の礼拝を守り、この教会の働きにあずかり、これを支持し、その純潔と平和とのために努めることを約束しますか」と誓約した。礼拝を無断で休むことや遅刻することはこの誓約に違反している。そのことを覚えていただきたい。もちろん、やむを得ない場合もある。そのことをイエスはよくご存じのはず。それでも、イエスが私たちを礼拝に招かれるのはここに祝福があるからだ。礼拝にきちんと集うこと。これは義務ではなく祝福への招き。この招きはどこまでも誓約に忠実な神によってなされている。私たちもまた忠実であろうとするとき、この祝福は私たちにとって遠くない。