2022年11月06日「与えて得るもの」

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聖書の言葉

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」マタイによる福音書 5章38節~48節

メッセージ

山上の説教を読んでいる。この説教は天の国の住人の姿。だからこそ、この教えを簡単にこの地上で実現できるわけではない。もちろん、イエスが命じておられる以上、真剣に受け止めることは大切である。わかっているけど、できない。その狭間を私たちは生きていく。そして、イエスはそのような私たちのことをよくご存じなのである。その上で、無茶とも思える言葉を私たちに伝えている。その心はどこにあるのだろうか。

 本日の聖書箇所では、「目には目を、歯には歯を」という教えが記されている。これは古代中東で一般的に見られた教えであり、旧約聖書にも登場する教え。今の私たちからすれば、野蛮に思えるかもしれない。しかしながらこの教えは行き過ぎた刑罰の禁止を意味していることをまず覚えたい。他人が、自分の手を傷つけたとする。その時、カッとなってその人の命を奪う。そのような事がないようにと定められているのが、この教えなのである。

 そのことを踏まえた上で、イエスはさらに続ける。「 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(39節)。この場合、左の頬をうつためには手の甲でなければならない。手の甲で人を打つ。これは侮辱的な行為。つまりこのところでイエスは侮辱に耐えるようにと教えている。肉体的な痛みだけでなく、精神的な苦痛にも耐えるようにというのである。このような教えた40節と41節にも記されている。そして42節には貸して欲しいと願う人に与えるようにとイエスはいわれた。これらの教えは39節の「悪人に手向かってはならない」ことの具体例である。つまり、悪に立ち向かうのではなく、悪をいわば受け入れ、我慢をして、そしてむしろ与えるのだということ。

 そして、イエスはさらに、このことを積極的な言い方で次の段落で言いかえている。それはひとことでいえば、愛するようにということ。敵を愛するように。自分の頬をたたいてくる人を愛するように。

 こうした教えを前にした時に私たちが思うのは「そんなの無理だ」ということ。その通りだ。しかし、もう一歩考えたい。私たちはこの教えを強いられる側にたっているのだろうか。むしろ、私たちは頬を叩き、上着のみならず下着をも奪い、他人に無理を強いるのではないか。だれに対して?それはイエスに対してである。イエスこそ、人々に頬を打たれ、着ているものを引き裂かれ、侮辱の叫びを一身に受けた。どこでか。十字架である。このところで私たちが見つめたいのはこの教えを成し遂げることができるかどうかではなく、この私が加害者であるという自覚ではないか。そして、そのような私たちにも対しても神の愛が注がれている。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。この神の愛に気づくとき、私たちはこのところにあるように与えられているものから与えるものに変えられていく。神の愛に感謝すること。ここから、天の国の住人としての歩みが始まっていく。