喜びの家
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ネヘミヤ記 7章72節~8章18節
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聖書の言葉
祭司、レビ人、門衛、詠唱者、民の一部、神殿の使用人、すなわちイスラエル人は皆それぞれ自分たちの町に住んだ。
民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。
書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立ち、その右にマティトヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが、左にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカルヤ、メシュラムが立った。エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。
次いで、イエシュア、バニ、シェレブヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、ヨザバド、ハナン、ペラヤというレビ人がその律法を民に説明したが、その間民は立っていた。彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。
総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」レビ人も民全員を静かにさせた。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。二日目に、すべての民の家長たちは、祭司、レビ人と共に書記官エズラのもとに集まり、律法の言葉を深く悟ろうとし、主がモーセによって授けられたこの律法の中にこう記されているのを見いだした。イスラエルの人々は第七の月の祭りの期間を仮庵で過ごさなければならず、これを知らせ、エルサレムとすべての町に次のような布告を出さなければならない。「山に行き、オリーブの枝、野生オリーブの枝、ミルトスの枝、なつめやしの枝、その他の葉の多い木の枝を取って来て、書き記されているとおりに仮庵を作りなさい。」
民は出て行き、枝を持って来て、各自の家の屋上、庭、神殿の庭、水の門の広場、エフライムの門の広場に仮庵を作った。こうして捕囚の地から帰った人々から成る会衆は、皆で仮庵を作り、そこで過ごした。ヌンの子ヨシュアの時代からこの日まで、イスラエルの人々がこのような祝いを行ったことはなかった。それは、まことに大きな喜びの祝いであった。
最初の日から最後の日まで、毎日彼は神の律法の書を朗読し、彼らは七日間にわたって祭りを行い、八日目には定めに従って終わりの集会を行った。ネヘミヤ記 7章72節~8章18節
メッセージ
今年も残すところ約一カ月となった。私たちの教会に関していえば、新会堂が完成して献堂式を行った。住み慣れた地を離れた。そのような1年を始めるにあたり掲げたのが詩編の御言葉127編とネヘミヤ記8章の御言葉である。
ネヘミヤ記という書物は、新しい出発の物語である。この書の背景には捕囚がある。捕囚の地から祖国の復興を願ってネヘミヤはエルサレムに向かった。ペルシャ王はずいぶんと親切にしたようである。そこには部下であるネヘミヤに対する信頼の思いがあったであろう。しかしそれだけではない。エジプトの脅威に備えてエルサレムを防波堤にしようという思いがあったと推察される。しかしながらそうした思いすら用いるのが神のご計画であることを覚えたい。
本日の聖書箇所によれば、この8章は仮庵祭の様子を描いている。仮庵、とはテントをイメージしていただければよい。エジプトから脱出する時に、人々はテントを張って生活をした。そのことを覚えるのが仮庵祭。エルサレムで再建に当たっていた人々はエルサレムに集い、お祭りをしていたのである。この時の人々の様子を「一人の人のようであった」と記す。これはどういうことか。心が一つであるということ。同じ方向に思いを向いていた。どこに心が向いてるのか。心の方向は目と耳がどこに向かっているのかによって明らかになる。彼らの目は上を向いていた。そして、耳は読まれる神の言葉に向いていたのである。
書記官のエズラは、木の壇の上にたったとある。これは塔とほかの箇所ではなっている。とにかく人々は上を向いたのである。彼らの目は上を向いていた。御言葉を朗読するエズラに注目していたのである。そして、耳は読まれる律法の言葉に向けていた。この律法の言葉を聴く時に、立ち上がったと聖書は記す。これは御言葉に対する権威がここに記されている。
この場面で人々が行ったのは礼拝。そして、礼拝とは何かがここには記されている。まず、礼拝は主をたたえること(6節)。ほめたたえることは、主を賛美すること。主は素晴らしいと告白すること。主の恵みに感謝をすること。それが、礼拝の一つ目の要素。そして、次に、御言葉が朗読され、その朗読の説明を聞くこと。7節と8節にこのことが記されている。これも礼拝に欠かすことのできないもの。そして、この朗読を通して彼らは泣いた。悔い改めに導かれたのである。これもまた礼拝の要素といえるのではないだろうか。そのような人々を前にして、エズラは叫んだ。泣いてはいけない。聖なる日、とくべつな日だ。むしろ、良い肉をたべ、甘い飲み物を飲みなさい!喜びは活力と喜びをもたらす。
罪は罪としてどこまでも残る。聖書が記すのは、人々が捕囚の目にあったのは神から離れたことが原因。その故に苦しんだ。それでも、エズラは言うのである。泣いてはいけない。喜びなさい。
主を礼拝すること。そこに民の力の源がある。力があふれてくる。主がこの再建の御業をここまで導いてくださった。全知全能の主が、この私の神。生きていく上でこのお方を信頼できる幸い。その幸いを思う時、私たちは力に満たされる。この礼拝を重んじ、新会堂を建ててくださった主にこれからも賛美をささげていこう。