2022年12月04日「キリストを待ち望む」

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キリストを待ち望む

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マタイによる福音書 25章1節~13節

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聖書の言葉

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」マタイによる福音書 25章1節~13節

メッセージ

この25章1-13節の「10人のおとめのたとえ」はキリストによる再臨の教え。キリストは再び、この世界に来られる。これを再臨とよぶ。この再臨をキリストが地上に来られたクリスマスと区別する。クリスマスは来臨もしくは初臨と呼ばれる。アドベントの時期に再臨について思いを向けるのはふさわしい。キリストは、この世界を治める王としてこの世界に来られる。クリスマスの時、キリストは赤ちゃんとしてこの地上に来られた。そのキリストが、今度は王として、この世界の終わりを告げるお方として来られる。それは、この世界が完成するといってもよい。この世界が本来あるべき姿に回復するために、キリストはこの地上にこられる。

 この再臨の出来事をキリストは何によって例えたか。それは婚礼である。このところにでてくるのは、結婚式を彩るおとめたち。晴れ着をきて、結婚式に備えている。どのようなことをするのか。花嫁がもう家にいる。その花嫁のところに、花婿が来る。その花婿が来るのを待っているのが、この10人のおとめである。お祝い事というのは、準備する人々も張り切るものである。それこそ喜びに満ちている。楽しみなものである。そのような思いでこのおとめたちは備えていた。

 そして、主イエスはご自分がこの地上に来られること、再臨をこのように喜びの出来事だと弟子達に伝えたのである。それは、結婚式の準備の中のあの喜びのようなものなのだ。そして、いよいよ、花婿がやってくる。そこにはおめでとう!という声が響くのである。このようにキリストを待つのがキリストを信じるものの賢さ。

  このたとえでは、花婿が遅れている。そして寝てしまった。そのことは、賢いおとめたちも愚かなおとめ達もかわりがない。このことは誤解しないようにしたい。眠ってしまうのは、肉体的な弱さの故。いつまでも起きていることは人間には不可能である。重要なのはきちんと準備をしていたかどうかということである。急に花婿がやってきた!そう、急に。この花婿はイエス・キリストのことである。キリストもまた、急にやってくる。泥棒のようにとも例えられる。私たちが気付かないうちに、ということである。

 しかしながら、もし、花婿が急に来たとしても、備えがあれば、慌てる必要はない。賢いおとめたちは、用意しておいた油で火をつけた。おろかなおとめたちは、油がなくなってしまった。そこで、どうしたのか。外に買いにいったのだ。その結果、愚かな5人は婚礼に間に合わなかった

  賢さとは知的な賢さではない。賢さは心の向き。キリストに思いを向けていたかどうかが問われている。そのために、誠実に準備をしたのが賢いおとめたち。このクリスマス。今一度、私たちは心をキリストを向けよう。クリスマスはそのためにとてもふさわしい季節。