2024年05月12日「種を蒔くキリスト」
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種を蒔くキリスト
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 13章1節~23節
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聖書の言葉
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」マタイによる福音書 13章1節~23節
メッセージ
マタイによる福音書13章は全部で7つからなるたとえ話からなる章。1節から23節は、種蒔きのたとえ話。マタイはイエスが家から出て舟に乗り、多くの群衆に語った場面を描写している。このたとえ話では、種を蒔く人(農夫)が種を蒔き、種が落ちる土地の種類によって異なる結果が生じることが描かれる。
イエスはまず、群衆に対して種蒔きのたとえ話を語る。このたとえ話には四つの異なる土地が登場する。道端、石地、茨の中、そして良い地である。種はそれぞれの土地に落ち、異なる運命をたどる。道端に落ちた種は鳥に食べられ、石地に落ちた種は根を深く張れずに枯れてしまい、茨の中に落ちた種は茨に塞がれて実を結ばない。一方、良い地に落ちた種は豊かな実を結ぶ。
イエスはこのたとえ話を語った後、弟子たちに対してその意味を説明する。彼らに対しては、なぜたとえ話を用いるのか、その理由も語られる。イエスは「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない」と述べ、弟子たちに対する特別な特権を強調する。この特権は、天の国の真理を理解する能力が与えられていることであり、これによって弟子たちは群衆とは異なる立場に置かれている。この神の国についての教えは12章でも語られていたことであり、46節から50節ではまさに家の中にいる弟子達と外にいる群衆という形でこのコントラストが描かれていた。やはり、天の国の秘儀は弟子達のみ知ることなのだ。
続いて、種蒔きのたとえ話の解説が行われる。イエスは、種が「御国の言葉」を象徴していることを明かし、それぞれの土地が神の言葉に対する人々の反応を表していると説明する。道端に落ちた種は、御言葉を聞いても理解できない人々を表し、悪しき者がその心から御言葉を奪い去ってしまう。石地に落ちた種は、御言葉を喜んで受け入れるが、試練や迫害が来るとすぐにつまずいてしまう人々を表している。茨の中に落ちた種は、世の思い煩いや富の誘惑に心を奪われ、御言葉が実を結ばない人々を象徴している。一方、良い地に落ちた種は、御言葉を聞いて理解し、それに応えて豊かな実を結ぶ人々を表している。
この例えを聞くものは自己反省を促されるのではないか。各自が自分をどの土地に当てはめるかを考えさせる。さらに、イエスは御国の言葉が広く蒔かれるが、それにどう応えるかは人それぞれであり、良い地に落ちるように心を耕すことの重要性を示している。その一方で、私たちはどれか一つの土地というのではなく、全てが当てはまるようにも思える。自分の心に豊かな種を蒔いて下さる主に感謝をしつつ、さらに豊かに収穫のために主が耕してくださるように祈りたい。そのように私たちは期待して御言葉に聞く。
このたとえ話から私たちが学ぶべきことは、神が常に御言葉の種を蒔いておられるという事実である。私たちは時に道端や石地、茨のような心の状態にあるが、それでも神は諦めずに種を蒔き続けてくださる。神の愛と忍耐によって、私たちの心が良い地となり、御言葉が根付き、豊かな実を結ぶようにと導かれている。このたとえ話は、私たちが心を耕し、神の言葉を受け入れ、それに応えて生きることの重要性を教えている。