2023年01月01日「イエスを見つめて」
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イエスを見つめて
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 2章22節~40節
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聖書の言葉
さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。ルカによる福音書 2章22節~40節
メッセージ
本日の聖書箇所は神殿が舞台。生まれたばかりのイエスを当時の慣習に従って神殿で献げるために両親はエルサレムに向かった。最初に登場するのはシメオン。このシメオンは信仰があつく、聖霊が留まっている人だという。そして、この人は、主が遣わすメシアに会うまで決して死なない。そうお告げを受けていた。
そして、このシメオンが幼子であるイエス・キリストを腕に抱いたのである。そして、シメオンは神を讃美した。この讃美はよろこびにあふれている。静かな感動がある。この時、シメオンの讃美を聞いた人は決して多くはない。細い、弱々しい声だったかもしれない。しかし、この人は讃美した。キリストが讃美を授けたといっても良いかもしれない。キリストを抱く。キリストを迎え入れる。それは讃美。讃美せずには居られないのである。しかも、その感動が普通に考えれば、もう現役を退いたと思われるような、高齢者のところにやってきたのである。神の救いが、なんの変哲もない高齢者のところに。
シメオンはキリストを抱いたときもういつでも死んで良い。そのように思った。それほどの深い感動だった。それは、長年、待ち続けたものが手には入って満足、というのではない。本当の命。尽きることのない命。朽ち果てることのない命。この命を感じて、もう死を恐れない。それが、この時のシメオンの姿である。このシメオンは、長い間、メシアが到来するのを願っていた。楽しみにしていた。祈っていた。これは、アンナも同様である。これは一生かけて祈っていた、といっても良いかもしれない。聖書の中にそのような人がいるということ。これは大いなる励ましなのではないか。祈るということを、主イエスがきますように、救いが人々にきますようにと祈る。その祈りを積み上げる。その信仰の姿をここにみる。
そして、この祈りつつ、キリストを目指して歩む祈りは、讃美を伴う祈りである。29節から32節に記されているのは「シメオンの歌」。教会は古くからこの賛美を愛唱してきた。この歌は改革派教会の伝統において、聖餐式の後に歌う賛美として用いてきた。それは、主イエスから招かれた食卓としての聖餐に、このよろこびの歌はふさわしいからであろう。また、再び来られるイエス・キリストを覚える讃美歌としても適している。
その一方で、シメオンはマリアに対して祝福の言葉を述べている。それが34,35節。しかしこのところは祝福とは遠い。シメオンは言う。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と。これはキリストの十字架をほのめかす。キリストはその生まれた時から、十字架を目指す。そしてそれは人々の罪のあらわれ。この十字架の時、マリアはまさに心を刺し貫かれたのである。しかし、その後にキリストは復活した。シメオンが待ち望んでいた救いがこの時に実現したのである。
私たちのために、罪のために十字架におかかりになったキリスト。このキリストを見上げて一年を歩んで参りたい。