2023年01月08日「良いことをする時には」

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良いことをする時には

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章1節~4節

音声ファイル

聖書の言葉

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」マタイによる福音書 6章1節~4節

メッセージ

山上の説教を久しぶりに読んだ。少しおさらいをしたい。イエス・キリストがこのところで弟子達に伝えているのは、「あなたがたの義」(5章20節)。義とは、キリストの弟子としての正しさ。正しい、というと倫理的な正しさを思い浮かべる方もおられるだろう。もう少し別の言い方をすれば、あり方、生き方といっても良いかもしれない。神を信じてキリストを救い主として信じる者には神の国が与えられているということ。神の国に住むものとして、どのように生きるのか。

 この義が律法学者やファリサイ派より勝っていなければならないと主イエスはいわれた。これは何か点数で勝負をするのではない。この勝っているかどうかは、神がお決めになること。つまり、神の目からみてのふさわしさ。どうしてキリストが神の目からみたふさわしさを教えることができるのか。それは、キリストが神だから。キリストは、神の国の到来を告げられた神として、弟子達に神の目線、神の思いを伝えたのである。

 6章1-18節は、ひとつのまとまり。このところのテーマは1節にある善行が1-18節のテーマ。その善行の具体的なあらわれとして、施しと祈り、そして断食がある。施しと祈りと断食は、今も昔も、良く行われていた宗教的な行為。信仰を深めるために行われていた。そしていうまでもなく、施すこと、祈ること、断食することは良いこと。これは聖書にも記されていること。しかし、良いことを行う時にこそ、注意しなければならない。まわりの人も褒める。自分も良い気分になる。だからこそ、心がどこに向かっているのか、注意しなければならない。心というのは、目には見えない。しかし、言葉と具体的な行動によってあらわれる。

 私たちは何か良いことをする時にも、人目を意識してまう。褒められたい。認められたい。それが動機となる。神は隠れたところを見ておられる(4節)。この神の眼差しを意識することは、他人の目から自由になるということ。人を意識しなくてすむ。これは本当に楽な生き方ではないか。しかも、そうした善意を神が報いをくださるとイエスは約束してくださっている。

 人に褒められようとしてそのような人は、すでに報いを受けている。これは人からの報い。この報いというのは、これは賃金をあらわす。受け取るは商業用語。十分な額の金額を受け取ることを意味する。この地上での良い思いという意味。しかし、より素晴らしい報いが神からの報い。

 神は、私たちのちょっとした善意をみておられる。教会に落ちていたゴミを拾う。何気なく、声をかける。本人すら意識していない当たり前のこと。この当たり前のことを神はきちんとみていてくださり、私たちに報いを与えて下さる。この神の眼差しの中で生きる。それが、天の国の住人。