キリストの家族となる
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- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 12章46節~50節
イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」マタイによる福音書 12章46節~50節
イエス・キリストとファリサイ派との論争から一転し、本日の聖書箇所では、キリストの家族についての問いが提起されている。イエスが群衆に語りかけていた時、母と兄弟たちが話をしたいと外で待っていた。しかし、イエスは「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と答えられた。イエスの家族は驚いただろう。自分たちが家族ではないか、という思いを持ったに違いない。考えてみると、イエスと長年、寝食を共にしている家族ほど、このお方が救い主だと信じるのが難しい人々はいないのではなかと思う。しかしながら、使徒言行録1章を見ると最初の教会のメンバーに家族もいるのでなんらかの形で家族伝道がなされていた可能性が高い。そして、家族もまたキリストの弟子となった。これは慰めではないか。もっとも難しいイエスの家族がこのお方を救い主として信じたのだから。
一見するとイエスの言葉は冷たく映る。しかしながらイエスは肉親の家族を捨てたわけではない。12章が伝えているのは8節にある神の国の広がり。この広がりの中で、肉親の家族とは異なる神の家族が存在するのだとキリストは言われたのだ。そしてこれは、マタイによる福音書の最初の読者にとっては慰めだったはずだ。教会の最初期、信仰を持った上で家族と軋轢を抱えた人々が多くいた。その意味で、この箇所は時代を超える問いである「信仰と家族の関係性」を考えさせる箇所である。現代においても、家族と信仰の狭間で苦しむ人々が多くいる。
イエスの血縁の家族は外に立っていたが、イエス様は弟子たちを指して、彼らこそが真の家族であると強調された。これは肉親を捨てよと言っているのではなく、信仰によって結ばれた家族の絆の素晴らしさを伝えているのである。
「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」とあるように、神の御心に従って生きる者こそが、イエス・キリストの真の家族なのだ。御心とは何か。エフェソ1章3節では「喜び」という言葉が「御心」と翻訳されている。この箇所を合わせて考えると、御心とは神が喜ばれることであり、それはイエス・キリストを信じて神の家族になることである。
キリストの家族になっても全てがうまくいくわけではない。イエスでさえ、救い主としての使命を理解してもらえない時があった。我々も信仰の道を歩む中で、家族や友人に理解されないことがある。そうした家族にいらだちを覚える時もある。その時に、自分自身を省みる時、自らの信仰を見つめざるを得ない。
教会は神の家族である。我々は神の御心を行うものとして、それぞれの家族のもとに遣わされる。キリストの家族として、神から与えられた家族のところへ行くのだ。そこには神の国の広がりがあるのである。