2023年01月22日「沈んだ顔を捨てて生きる」
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沈んだ顔を捨てて生きる
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 6章16節~18節
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聖書の言葉
「断食するときには、偽善者のように暗い顔つきをしてはならない。彼らは、断食しているのが人に見えるようにと、顔を隠すしぐさをする。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。あなたは、断食するとき、頭に油を塗り、顔を洗いなさい。あなたの断食を人に見られることなく、隠れた所におられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」マタイによる福音書 6章16節~18節
メッセージ
6章1-18節のテーマは善行。イエスはこのところで、3つの善行について教えている。施し、祈り、そして断食。これらは当時行われた信仰を深めるためのもの。善行は信仰にとって良いこと。本日はこの3つめの断食。「施し」「祈り」「断食」のエピソードを通してイエスが伝えようとしていること。それは人からの「いいね」ではなくて神からの「いいね」を目指そうということ。それは、他人目から自由になって、神に思いを向けて行くという生き方。
今回も、これまでと同様に、偽善者が登場する。偽善者とは役者という意味。人々の耳目を集めるために演技をする。断食をするときに、暗い顔をする人々がいた。なぜならば立派な信仰者だと思われたいから。いわば、自らの信仰深さを演じるのだ。そこで断食をする時には「頭に油をつけて、顔を洗うように」とイエスはいわれた。ユダヤ人たちは、オリーブ油や甘い油を体に塗る習慣があったという。これは、乾燥から肌を守るために行われたいわば、スキンケア。通常の化粧であり、人工的な派手さではない。つまり、主イエスはこのところで暗い顔をするのではなく、きちんと整えて生活をするように、といわれた。わざわざ暗い顔をする必要などない。なぜか。断食とは、自らの罪を悔い、神さまに赦しを求めること。キリストを信じる私たちは、すでに罪の赦しが与えられている。そうであれば、沈んだ顔をする必要はない。悔い改める時も、赦しに感謝してパリッと生きていく。赦しはキリストの中にあり、キリストを私たちはすでにいただいているのである
このところのイエス・キリストの指摘は鋭い。私たちは、良い信仰者を演じることができる。長年の教会生活でそうした態度が身につくことだろう。しかし、それは誰かを意識してのことか、それとも神への感謝として行っているのか。この点が大切。また、信仰があるにも関わらず、冷めた態度をとってしまうことがある。これはいわば偽悪である。これもまた人の目を意識してのこと。そうした目線から自由になる。それは、神に目を向け、神があたえてくださる恵みに生きること。顔を洗い、身なりを整えて、生活をすること。この自由さ。この恵みに神は私たちを招かれる。