2023年02月12日「人生の優先順位」

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聖書の言葉

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」マタイによる福音書 6章25節~34節

メッセージ

本日は25節から34節。このところでイエスは「思い悩むな」といわれる。何を食べるか、何を着るか、何を飲むか。こうした思い悩み。別の聖書では「思い患い」となっている。患いとは病のこと。私たちにとって、思い悩みが病だとしたら、それは癒やされるもの。この思い悩みをキリストは取り扱うのである。前回も私たちの身近なところに目を向けた。それは所有をめぐるもの。今回は思い悩み。こうしたものを詩編55編23節の言葉を借りれば「重荷」ということになる。私たちは重荷を持つ。詩編の詩人は重荷を主に委ねよ、という。これは投げ捨てるという意味がある。それではどのようにして私たちは重荷を主に委ねるのか。キリストは言われる。神を第一とするように。

 私たちは思い悩みを絶えず抱えている。キリストの言葉を直に聞いた人々は食べることや飲むこと、着るものが死活問題だった。現代を生きる私たちはどうだろう。少なくともこの国では食べるのに困ることはあまりないかもしれない。それでも私たちは思い悩みが絶えない。そのようなものにとっては、この御言葉は非常に重く響く。しかし、よくよく読んでみるとこのところでキリストは悩みがなくなるといっているのではない。思い悩みから神に思いを向けるように。それがキリストのメッセージ。

 それでは、私たちが神を第一にするために、まず行うべきことは何か。このところでイエスは「見るように」といわれる。空の鳥、地面の草や花。これらを良く、注意深くみなさい。空の鳥や地の草花に神の恵みがきちんと注がれている。それならば、私たちにはさらに多くの恵みがあたえられるに違いない。まず、神に目を向けること。そこから思い悩みに心が支配されない歩みが始まる。

 旧約の時代から神の民は神の恵みを思い、目を上げていた。詩編121編などにあるように山を見ていた。この山はシオンの山。それは神の都、エルサレムの象徴。そして、神がお造りになったこの世界に思いを馳せ、やがて自らに助けがくることを確信すること。それが、目を上げるということ。そして本日の聖書箇所によれば、遠くの山を見るのではなく自分の近いところにある神の恵みに思いをむけるようにとキリストは誘う。

 思い悩みに心が奪われるとき、私たちの信仰は「薄い」。信仰がなくなるわけではないが、本来のあるべき姿ではない。なぜならば、私たちの天の父は私たちに必要なものを全てご存知だからである。その神がきちんと与えてくださるから、私たちは安心して生きていく。まず、神の国と神の義を求めたい。これは、神の御支配がこの世界に、この私の中に広がっていくことを祈る歩み。そしてそれは、何も特別なことをするのではなく、一日をきちんと生ききるということではないか。明日には明日の悩みがくる。これは避けられない。だからこそ、全てを与えてくださる神に信頼して、神を第一にしていく。それこそが、私たちの人生の優先順位。