2024年04月28日「全てが益となる」
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全てが益となる
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
ローマの信徒への手紙 8章18節~30節
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聖書の言葉
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。ローマの信徒への手紙 8章18節~30節
メッセージ
本日はローマの信徒への手紙8章18節~30節をお読みした。この中で特に28節の「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」という聖句を中心に、人生の苦難の中にあっても希望を持ち続けることの大切さを覚えたい。この希望とは、単なる楽観主義や根拠のない期待ではなく、神への信仰に基づいた確信。信仰を持つと希望を失うことがない。もちろん、人生の荒波の中で希望が揺らぐことはあるが無くなることはない。なぜならばそれは、自分が持つ希望ではなく、神が与えてくださる希望だからである。
聖書が語る希望は、私たちの置かれた状況や感情に左右されない、揺るぎないものだ。それは、神の愛と約束に基づいているから。たとえ今、目の前が暗闇に包まれていても、神が私たちとともにおられ、すべてのことを益となるように導いてくださると信じることができる。この希望は、私たちに力を与え、困難を乗り越える勇気を与えてくれるのである。
私たちは神に愛され、見つめられている存在である。それではどのようにして神の愛を知るのか。聖書を通して私たちは神を知り、神に愛されている自分を知る。そして特にイエス・キリストの十字架を通して神を知る。愛を知る一つの方法はどれほどの犠牲を払っているかだろう。キリストは、私たちを罪から救うために、十字架上で命を捧げられたのだ。それほどまでに、神は私たちを愛しているのである。その私たちを神は見捨てることがあるだろうか。決してそんなことはない。「神はなぜこのような苦しみを私に与えるのか」と言いたくなる時もある。そのような時でも、神は決して見捨てない。置かれている状況にも意味があることを信じる力を信仰は与えてくれるのだ。
現代の日本では若者が希望を失いつつあるという。そのような時代にあっても希望を持ち続とけることができるのだから信仰者は幸いである。なぜなら、人間の希望が尽きるところから、神の希望が始まるからである。人間の力には限界があるが、神の力は無限なのだ。キリストの復活がそれを示している。キリストは十字架上で神に叫ばれた。「なぜ私をお見捨てになったのですか」と。そこにあったのは絶望である。しかしキリストは、死の力に打ち勝ち、復活された。それは、私たちにも、死や絶望を乗り越える力が与えられていることを意味しているのである。
苦しみの中にあっても、神がともにおられ、益となるように働かれる。私たちは一人で苦難に立ち向かうのではなく、神とともに歩むことができるのである。絶望の先に神がおられることを信じ、希望を持って生きることができるのである。たとえ状況が厳しくても、神は私たちを見捨てることはなく、必ず道を備えてくださるのだ。
私たちは祈りながら、キリストによりたのみながら、教会で共に主を見上げながら生きることができる。この幸いな支えをいただくものは幸いだ。