2023年02月19日「一億総評論家時代を生き抜く知恵」
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一億総評論家時代を生き抜く知恵
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 7章1節~6節
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聖書の言葉
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。マタイによる福音書 7章1節~6節
メッセージ
本日の聖書箇所は印象的でなかなか興味深い教え。1節では非常に短い指示が記されている。2節ではその説明。そして、3節からはキリストのいわばたとえ話である。キリストは私たちの目に「丸太」があるといわれる。この丸太は古い聖書では梁と翻訳されていた。新しい会堂では上をみると梁が見える。この梁が目に貼っているというのはもちろん誇張。そしてキリストは時にこうした奇想天外なことを言われる。これは滑稽さすら覚える。しかしそれが私たちの姿であることを考えるとただ単に、滑稽だと笑うことはできない。
どのような姿が滑稽なのか。それは、自分の目に丸太がありながら兄弟のおがくずを指摘する行為が滑稽なのである。おがくずは罪のことである。そして人の落ち度や欠けが具体的な形。私たちは自分の罪には疎いが他人の罪には敏感なのである。そしてこのようにも思う。なるほど、確かに私の中には丸太がある。しかし、人間、みんななんらかの落ち度がある。自分も周りの人も同様だ。そうだとしたら、お互いさまということで生きていくのか。ところが、このところで主イエスがいわれているのは、こうしたお互いさま、というようなものでもない。さらに一歩進む。要するに、自分の方が相手よりもひどい、という自己に対するまなざしなのである。自分に丸太が入っている。
このことは非常に困難なことだ。人間、自分のことはよく見えず他人のことは見えすぎるくらいに見えるのだおる。。自分の目にはおがくずがあっても、他人には丸太があると思いたくなる。しかしそうではない。とわれているのは、あなた、なのである。
主イエスはなんといわれるのか。私たち一人ひとりが裁かれるというのだ。しかも、その裁きは自分の裁く裁きで裁かれるのだという。このところで主イエスは自分の量る秤で量り与えられる。ともいわれた。はかりは、お互いに同じである必要がある。同じく裁かれるというのだ。
そこで、問われるのは誰によって裁かれるのかということ。神によって裁かれる。この段落には神という言葉がでてこない。しかし、私たちは神によって裁かれる。そのことを忘れる時に、私たちは他人のおがくずに目が行くのではないだろうか。私たちのの中にある丸太とは、これは罪のことなのだ。それでは私たちの罪の大きさはどうやってわかるのか。それは、キリストの十字架を見上げることによる。神の独り子が、十字架でまさに、神に裁かれた。この神の裁きによって、私たちは救われた。罪なきお方が、罪を引き受けた。そこに私たちの罪の悲惨さ、丸太がどれくらい大きいのかということがわかる。キリストの救いを通して私たちは自分の罪深さがわかるのだ。
このようにして私たちの目は明るくなる。そしてそれは、兄弟のおがくずを除くため。これは愛の行為。他人の罪を指摘するのではなく、他人の罪が赦されていくように。ここに、私たちの目がきれいになった理由がある。他人を批判するのではなく、ともに主イエスに従っていこう。