2023年02月26日「上から目線と神目線」

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上から目線と神目線

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 1章43節~51節

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聖書の言葉

その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」ヨハネによる福音書 1章43節~51節

メッセージ

本日の聖書箇所にはイエス・キリストと出会い、キリストに従った人々が登場する。フィリポとナタナエルの二人。ナタナエルを中心に見ていこう。ナタナエルという人は一言で言えば堅物で自分の考えに凝り固まる人物。しかも、どこか上から目線。自分の考える範囲でしか、世界を見ようとしない人だともいえるだろう。

 ナタナエルは、友人であるフィリポという人から、主イエスのことをこのように紹介されたのである。45節。「フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」フィリポはナタナエルに出会った。この出会うというのは見つけ出すという意味がある。フィリポはナタナエルを見つけた。この人にイエス・キリストというお方について教えたい。そういう思いに駆られたのである。そして、このフィリポの出会いの背後には、キリストご自身がフィリポと出会ったという過去がある。キリストもまた、フィリポを見つけ出したといえるだろう。キリストとの出会いは人それぞれ。しかし、私たちは人を通して、キリストに出会う。フィリポのように直接、キリストが声をかけて下さるということはないかもしれないが、時に私たちは人と通してキリストと出会うことがある。キリストを知ることがある。まさに、ナタナエルはそのような人。

 しかしながら、ナタナエルはイエス・キリストがフィリポの言う旧約聖書が伝える救い主だとは信じなかった。それはイエスがナザレの出身だったから。ナザレは小さな町。そのナザレから立派な人がでろうだろうか。それがナタナエルの考え。ナタナエルはナザレを下にみていたのである。他者をあざ笑うことによって自分をその人よりも高いところにおこうとする。イエス・キリストに対して、このような態度をとる人も多い。「今時宗教なんて」という人。「もし何か自分に得がありそうなら、信じても良いよ」という人もいるだろう。

 そのように見下した態度をするナタナエルに対して主イエスは「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」といわれた。これはナタナエルを肯定的みている。確かに、この人は正直だった。偽りがないというのは正直という意味。でも、この正直さがさきほどみた主イエスを見下す発言に結びついた。周りの人々はこのナタナエルの性格にうんざりしていたかもしれない。でも、それを主イエスはこの人にはいつわりがない、といわれたのである。良いところを見抜いたのである。

 今を生きる私たちは、直接にキリストから語られることはない。しかし、聖書を通してキリストと出会い、そしてこのお方を通して自分の姿を見るのである。それは自分も知らなかったような一面を発見すること。そして、自分よりもはるかに大きなお方に信頼をすること。ナタナエルはキリストと出会い、従った。私たちもまた、キリストに出会い、従っていこう。その時、私たちは自分のプライドから解放され、神の眼差しに気付くだろう。