2024年04月07日「分裂をもたらすもの」
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分裂をもたらすもの
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 12章22節~32節
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聖書の言葉
そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」マタイによる福音書 12章22節~32節
メッセージ
本日の聖書箇所に描かれるイエス・キリストの姿は論争的なもの。イエス・キリストは時に論争的な姿勢で、神の国を宣言された。もちろん、聖書が語るように神は愛である。そして、神の愛はイエス・キリストにおいても惜しみなく表現されている。しかし、聖書が語るのは愛だけでなく、正義のためには厳しい態度も示される神の姿である。
ことの発端はイエスが行われた癒やしの出来事である。イエスが悪霊に取りつかれた人を癒したとき、人々は驚き喜んだ。驚くというのは熱狂的になるという意味がある。しかし、ファリサイ派はイエスの力の源を疑い、悪霊の頭ベルゼブルの力によるものだと言った。イエスの力が神の力によるものだと理解できなかったのである。それに対しイエスは、悪霊が悪霊を追い出すことは内輪もめであり、あり得ないと反論した。神の子イエスであっても、人々を苦しめる悪霊を追い出し人を癒すことは、激しい戦いだったのだ。
イエスの力は悪霊を圧倒的に追い出すほど大きなものであり、イエスはすでに勝利を収めていた。それは確かなことである。それならば、神の力を前にしてどのように向き合うのか。せっかく神の恵みと救いがあるのに、素直に応答せず自分なりの理屈をつけていないだろうか。それではファリサイ派の人々と同じ過ちを犯すことになる。マタイによる福音書のこの箇所で言及されている「霊に対する冒涜」とは、神に頼らず、神以外のものを頼ってしまうことを意味する。それは神に背くむなしい行為なのだ。
結局、私たちに問われているのは、イエス・キリストの味方になるのか、敵になるのかという選択である。イエスは神の子として、人々を悪霊から解放し、神の国に招き入れるために戦われた。私たちは、このイエスを信じ、従うことで真の自由を得ることができるのだ。神に従い、神の国に入るか。それ以外のところの住人になるのか。二つに一つである。