2023年03月05日「最良のプレゼントを下さるおかた」

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最良のプレゼントを下さるおかた

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マタイによる福音書 7章7節~12節

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聖書の言葉

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」マタイによる福音書 7章7節~12節

メッセージ

イエスはいわれた。 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(7節)。よく知られた言葉である。しかし、それだからこそ、よく誤解されてきた言葉ではないか。あきらめなければ与えられる。そのように理解されることがある。しかしながらこの7節は私たちが求めたものを与えられるという意味ではない。大切なのは、自分のほしいものを得るのではなく、与えてくださる御方が、それぞれにふさわしいものを与えられるということ。与えてくださるのは天の父。

 この天の父が与えてくださるという教えは、6章32節にも記されていた。そこで、ある人はこのように考える。この7章7-12節というのは、本来は6章34節の続きであったのではないか。前々回、7章1-6節をお話ししたときにも申し上げたのであるが、7章1-6節は5章の終わりに本来位置しており、神の完全な赦しを味わったものが、その赦しの中でお互いに赦し合うことを命じた教えだと理解することもできる。そうだとすれば、7章1-6を飛ばして、6章の終わりから、この7章の7節からと理解することは筋が通っている。つまり、神が必要なものを全てご存じである。その神に、徹底的に祈れ、という教えである。

 しかしながら、それではどうしてマタイはわざわざ7章1-6節をこの場所にいれたのだろうか。そうした疑問が沸いてくる。おそらく、ここにも意図がある。それは、7章1-6が、お互いにたいする向き合い方。7章7-12節が、神との向かい方。このように、対象は異なるが、どう向かうのか、そうした教えだと考えることもできるだろう。

 それでは、この求めること、探す、たたくこととはどういうことなのだろうか。それは祈りである。祈ること。そのことを伝えるために、主イエスは「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」と言われたのだという。そのように求める私たちに、神は良いものをくださるのだ。そのことは、神が私たちに必要なものを知っておられ、与えてくださるということ。その神に信頼する。

 このところで、求めているのはパンと魚である。これは、非常におもしろい。冒頭でもお話ししたが、なんでも求めれば良いというのではない。あくまでも、神が与えられるのは私たちに必要なもの。パンは一般的な食べ物。魚も良く食されていた。これはなにも、質素なものを与えられるというのではない。その人にとって、パンが必要であれば、パン、魚が必要であれば、魚を与えてくださるということ

 そして私たちは、ただ必要が与えられるだけではない。必要を備えてくださる神。その神への信頼が、ますます豊かになっていく。あらゆるものに勝るプレゼントが、この神との愛である。私たちは主に祈り、主が豊かに与えてくださることを身をもって知る時、この神の愛を知る