2023年03月26日「渇くことのない水」

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聖書の言葉

サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」ヨハネによる福音書 4章7節~26節

メッセージ

 イエス・キリストが出会った一人の女性。名前は記されてなく「サマリアの女」と呼ばれている。この人が井戸でイエス・キリストと出会う。井戸は出会いを連想させる場所。旧約聖書において、イサク、ヤコブ、モーセが井戸で決定的な出会いを経験している。

 このサマリアの女は正午ごろに井戸に来た。この時代、水くみは重労働。朝早くか夕方に行うことが多かった。この人は人目を避けていたと考えられる。後に語られるようにこの人は夫を頻繁に変えている。そんな彼女を人々は白い目で見ていたのだろう。このサマリアの女にキリストはご自分から声をおかけになられる。「水を飲ませてください」(7節)。この一言は彼女を驚かせた。サマリア人とユダヤ人は仲が悪かった。だからこそ、彼女は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。このようにキリストは壁を越えてくる御方である。ある人は、この時にキリストが飛び越えた壁を4つに分類している。人種的、文化的、性的、道徳的。この壁をキリストは越えられたのである。

 キリストがこの女性に声をかけられたのは、この人が渇いていたから。この人は水を汲みに来た。のどの渇きを感じていただろう。しかし、この人の渇きはより深いところにある。キリストは渇いている人を見過ごす方ではないのだ。この人は心から渇いていた。この渇きを夫を変えることで満たしていたのだろう。その人にキリストは決して渇くことのない水を与えられる。しかもその水は外にもとめるのではない。自分の内からわき出てくるもの。それは「永遠の命に至る水」(14節)。

 キリストが自らのことを的確に言い当てるので、この女性はキリストを「預言者」だと思った。しかし、キリストはただの預言者ではない。永遠のいのちを与えることができる御方。それは永遠のいのちを持つ方。それは神である。キリストはこのところでご自分が神であることを証言している。そして、この神が人となった。それがイエス・キリストという御方なのである。この御方を通して私たちは永遠のいのちをいただく。本当の幸い得る。それまで握りしめていたものを手放し、この御方を信頼する時、私たちは渇くことのない水を手に入れる。

 この神と出会うことを礼拝という。今日の聖書にも礼拝が登場する。この当時、エルサレムで人々は礼拝していた。しかしキリストの到来によりその礼拝は特定の場所ではなく、キリストの臨在により礼拝が実現する。礼拝はキリストと出会う場所。礼拝は、水を飲みにくるようなものだ。その水は私たちを満たす。渇きを癒やす。この水を、イエス・キリストからこれからもいただこう。私たちのまことの満たしは、ただキリストから来る。