2023年04月02日「イエスの渇き」
問い合わせ
イエスの渇き
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 19章28節~37節
音声ファイル
聖書の言葉
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。ヨハネによる福音書 19章28節~37節
メッセージ
本日から受難週。イエス・キリストが十字架に向かわれたその最後の日々。特に、今週の金曜日は受難日といってキリストが十字架におかかりになったことを覚える時。この受難日を経て、キリストが復活されたイースターを御祝いする。キリストの苦しみ。キリストの苦しみの姿を福音書は赤裸々に記す。福音書の多くの記事から私たちはキリストの権威と栄光を見る。しかし、最後の日々は弱り果て、渇きを覚えられたキリストの姿を福音書は記すのだ。
キリストの最後の日々を読む時、私たちはキリストの苦しみに思いを向けることになる。しかしながら描かれているのはキリストの苦しみだけでない。本日の聖書には兵士がイエス・キリストの脇腹をやりで刺すという場面がある。ある人はこの行動をこのように分析する。「普通の生活の非倫理性」。少々、難しい言葉であるが日常の中にある暴力性のこと。この時キリストはすでに死んでいた。わざわざ刺す必要はなかった。それでもこの人は刺した。この兵士がことさら、残虐な人だということはない。なぜあの人がこんなことを、ということが私たちの周りでもないだろうか。キリストの十字架はこうした深い闇を明らかにする。
キリストは、十字架上でいわれた。「渇く」。非常に短い言葉。聖書がつたえる十字架上のキリストのことばは全部で7つある。全ての言葉を収めるわけにいかないので、福音書にはそのいくつかが収録されている。この福音書を書いたヨハネはこの「渇く」という言葉をどうしても伝えたかったのだろう。心ひかれる思いがしたのだろう。この渇くという言葉は、ヨハネによる福音書を読む者にひとつの場面を思い出させる。それは前回、御一緒に読んだヨハネ4章以下のサマリアの女とイエス・キリストのやりとり。この場面はキリストの十字架を暗示する。キリストは井戸で出会ったサマリアの女にその女性に水を飲ませてほしいと願う。驚く彼女にキリストは「決して渇くことがない水をあなたにあげよう」といわれた。キリストが言われたのは、のどの渇きを癒やす水ではない。それは永遠の命のこと。決して渇くことのない命の水。この水をキリストは飲ませようと言われたのだ。そのキリストが。永遠の命の水を与えると言われた方が十字架上でつぶやく。「渇く」。
この渇き。これは紛れもなく肉体的な渇き。キリストはこの肉体の苦しみを、ご自分が経験されたのだ。もし、私たちが肉体の苦しみを背負うとき、このキリストの渇くといわれた姿を思い出したい。キリストもまた、肉体の苦しみを負われた。そしてキリストの渇きはさらに続く。キリストは十字架で死なれた。それは神から見捨てられたということ。この十字架の死によってキリストの渇きは極限にまで達したのだ。キリストは真の神として、真の人としてこの苦しみを受けられた。
この死の先に、復活がある。この復活にこそ、永遠の命、つきることのない水の源がある。私たちもこのキリストの復活を信じ、永遠の命をいただいた。このことは喜び。そして喜びの前のイエスの受難を思いながら受難週を過ごそう。