2023年04月09日「見ないのに信じる幸い」
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見ないのに信じる幸い
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 20章24節~31節
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聖書の言葉
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。ヨハネによる福音書 20章24節~31節
メッセージ
本日はイースター。キリストの復活をお祝いする日。聖書によれば、キリストが復活した朝、キリストの墓には石でできた蓋が転がっていた。キリストは墓から外に出た。それは死を打ち破ったということ。キリストは死に勝利したのだ。そしてこの復活はただ、キリストが死から解放されたということに留まらない。この復活は、人を変える力がある。復活を信じたとき、人は変わっていく。そのためにキリストは復活された。闇から光りへ。死から命へ。嘆きから慰めへ。この恵みを与えるために。
最初に復活の主イエスと出会ったのはマグダラのマリアである。このマリアの次に出会ったのが弟子達。弟子達がキリストと出会ったとき、一人の弟子がその場にいなかった。その弟子はトマス。他の弟子達が、口々に、イエスの復活を告げた。トマスは信じることができなかった。彼は疑り深い性格だとよく言われる。そのトマスに、キリストは出会ってくださったのである。
キリストはトマスに言われた。「あなたがたに平和があるように」(26節)。この語りかけはすでに他の弟子達に対して行われていたもの(19節)。その時、トマスはいなかったので、この26節のイエスの言葉はトマスに対してのものだと言っても良い。トマスはイエスが復活したことを、信じたくても信じることができなかったのかもしれない。心がざわつくトマスに対して、キリストは平和があるようにといわれたのである。この時、部屋の戸は閉まっていた。その部屋の中にキリストがこられたのだ。これはキリストの熱意の表れ。この時トマスは復活を信じていないただ一人の弟子。弱い存在。その弱いところにもキリストの御手がある。
さらにキリストはトマスに対して、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)と言われた。トマスがこれをしなければ信じない、と言ったことを全て行うようにというのである。そこまでへりくだる御方が、復活の主なのだ。このキリストの姿を見たときにトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエス・キリストが神であるということ。それはヨハネによる福音書音の冒頭(1章1,2節)で言われていたこと。この福音書は、イエス・キリストが真の神であり、復活の主であることを私たちに伝えている。そしてこの御方を信じることにより、永遠の命に与る(30,31節)。
信仰を告白したトマスに対してイエスは「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(29節)。トマスはキリストをその目でみた。私たちはキリストを肉眼で見ることはできない。それでもキリストを信じることができる。その幸いが私たちには与えられている。