2023年04月23日「人となられた神 」

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人となられた神 

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 11章17節~37節

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聖書の言葉

さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。ヨハネによる福音書 11章17節~37節

メッセージ

 イエス・キリスト。このお方について、ある人がこのように言っている。「キリストは破れ口に立つお方」だ、と。破れ口。袋や靴下、ジーパンなどが破れてしまう。放っておくとそこからさらに穴が大きくなる。そして、いつの日か使い物にならなくなってしまう。そこで、糸で縫ったり、当て布をしたりして補修する。そして、キリストというお方は私たちの人生の破れ口に立ってくださる。ご自分がその穴をふさぐいわば布になってくださる。私たちが経験する破れ口にはいろいろなものがある。愛する者の死はその最たるものではないか。

 そしてこのイエス・キリストは真の神であるのと同時に真の人であられる。キリストが神であるということは命を与えるお方だということ。それはキリストが病を癒やし、死に対して真の命を与えることができる力を持っているということ。そして、キリストは人として、人々の悲しみや苦しみに寄り添い、共感し、愛情を示すお方でもある。そしてそれだけではない。キリストは救い主であられる。救いとは罪からの救い。そして私たちが経験するあらゆる破れの原因は罪。そして罪の報酬は死である。肉体の死も、神から離れる霊的な死も全てこの罪から来ている。そして、救い主であるキリストはこの罪から私たちを解放してくださり、神とともにある命を与えてくださる真の神。

 本日の聖書には命を与える神としてのイエスと、人々にあわれみを持って接する人としてのイエスが描かれている。ベタニアという村に、マルタとマリア、そしてラザロという兄弟がいた。弟のラザロが病気で苦しんでいる。彼の姉妹であるマルタとマリアは非常に悲しみ、キリストに助けを求めた。しかし、キリストはすぐに彼らの元へ行くことができず、2日間待ってからベタニアの村に向かわれた。

 キリストが到着したとき、ラザロはすでに死んで4日目。村の人々は悲しみに沈んでおり、多くの人々が家族を慰めるために訪れていた。キリストはマルタに会い、彼女が憤りの思いを抱いていることを理解した。それでも、キリストは彼女に「あなたの兄弟は復活する」と言い、ラザロが死を打ち破ることを約束する。マルタは、いつの日か訪れる復活を信じている、とキリストに応答する。そのようなマルタに対してイエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。キリストこそ、真の神。このお方こそ、命を与えることができるお方である。愛する兄弟を失ったマルタの破れ口にイエスが立たれたのだ。

 またそれだけではない。この物語においてキリストは涙を流された。そして、この涙はマルタとマリアの悲しみに寄り添うキリストの姿の涙である。それとともに、この涙は憤りの涙。この憤りは死に対する憤り。そして、キリストは言われた。「ラザロ、出て来なさい」と。この言葉によって、ラザロは驚くべきことに復活した。キリストは死に打ち勝ち、ラザロを死から解放したのである。この奇跡は、イエス・キリストの神性と人間性が見事に融合した姿を示している。キリストは、人々の破れ口に立ち、悲しみに寄り添い、彼らを死から命へと導くことができる。そして私たちが困難に直面したとき、キリストは私たちのそばに立ち、力を与えてくださる。

 キリストの恵みに与るためには、受け身であることが大切だ。ラザロは、彼自身では何もすることができない。病の時には家族の世話になり、墓に入ってからはただキリストの恵みによって墓から出ることができた。私たちも同様に、自分で自分の破れをどうすることもできない。罪をどうすることもできない、キリストに委ねて行くこと。その時に私たちの破れ口にキリストが立ってくださる。