2023年05月07日「天の国に入る者」

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聖書の言葉

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』マタイによる福音書 7章21節~23節

メッセージ

本日の聖句が伝えるのは天の父の御心を行う者が天の国に入るという事。ここでは「主よ、主よ」とイエスに呼びかけるもの、御名(キリストの名)によって予言し、悪霊を追い出し、奇跡を行う者が登場する。いえすはかの日(週末の日)にそれらの人々に対して「あななたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れされ」と確信をもって言われるのだ。

この聖句から、単にキリストに呼びかけたり、キリストの名によって奇跡的な事象を起こすだけでは、天の国に入ることはできないという事が示唆されている。主よ、と呼びかけること、御名によって人々を助けることは良いことだ。しかし、それだけでは天の父の御心を行う事にはならないとイエスは言われた。

この御心とは何か。御心とはよく聞く言葉であるが考えれば考えるほど難しい。ある人は聖書全体を読めば御心は分かる、という。またある人はこの箇所の御心とは山上の説教を真剣に読めばわかるという。そこで、聖書の他の箇所から、さらに山上の説教からこのところを読み解きたい。まずはルカ福音書18章9~14節に記されているファリサイ派と徴税人のたとえ話から本日の聖書箇所に光を当てたい。この物語では、二人の人物がそれぞれの方法で神へ祈る。ファリサイ派の人物は、自分の善行を神に対して誇り、自分の正義を主張する。一方、徴税人は自分が罪人であることを自覚し、自分の罪を告白し、神の前にひざまづく。そしてこの人が義とされた。それはつまり神から正しいとされたのは徴税人であったということ。自分の罪を告白し、自分の力ではなく神により頼む人々こそが、神から正しいと認められる。そのような人が天の国に入る。主はこのような人々を知らないとは言わず、その代わりに彼らをご自分のもとに招かれる。

この物語から、神の御心を行う者とは、自分の罪を告白し、自分の力ではなく神の力に頼るものであることが分かる。マタイ福音書5章3節では、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」とある。これは自分の力に頼らず、神に全てを委ねる心の貧しい人々が、天の国に入ることができるという事。

罪人である人間にとって罪を告白することは本当に難しい。だからこそ、私たちは礼拝の中で罪を告白して赦しの言葉を聞く。自分の力では知ることもできない罪もある。そうしたものを全て御前に告白して跪く。そのようなものが天の国に招かれている。