2023年04月30日「狭き門を見出す」
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狭き門を見出す
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 7章13節~20節
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聖書の言葉
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」マタイによる福音書 7章13節~20節
メッセージ
先々週、私たちが見たのは7章12節。これは黄金律、ゴールデン・ルールと呼ばれるもの。この7章12節は山上の説教のいわば結論に当たると言える。その結論に続いて、マタイは4つの教えを記して山上の説教を閉じている。この4つは山上の説教の教えを実際に生きていくときに大切なこと。この説教では、信仰者としての正しいあり方、生き方が示されていた。このことをイエスは「義」と表現された。この義に沿った生き方。この生き方を通して、私たちは山上の説教の心をより深く知る。山上の説教では、神を信じる幸い、神のすばらしさ、祈りながら生きることが語られている。この教えを生きていく時、私たちは幸いをより深くする。
この4つの段落を見ていくと、勧めと警告が含まれている。そして日本語では様々に翻訳されているが、「行う」という言葉がこのところでは多く用いられている。行うべきこと、そして警告。これは招きと拒否といっても良いだろう。しかしながら、この両者は同じ重さで考えるべきではない。聖書の主旋律はキリストの救い。罪の指摘ではない。この両者は非対称と言えるだろう。
幸いへの招きについて、まずイエスが教えているのは狭い門から入れという事。この狭い門は命に至る。反対に広い門は滅びにいたす。このことでイエスが教えているのは決断の重要性。どの道を選ぶか、ということ。山上の説教を聞いた者として、私たちは父なる神を見上げる。そして祈りながら生きる。その時に、どのように決断をしていくのか。2つ目の段落は教会をフォーカスする。偽預言者は教会をかき乱す。最初の段落が個々人にフォーカスしているのとは対照的である。
最初の段落を読み解く鍵は「門」。ヨハネによる福音書でキリストはご自分を門であると言われた(10章9節)。つまり、キリストを通して私たちは命に至る。この命は父なる神と共にあること。それが、幸いである。狭い門から入るという事はキリストを信じること。そして、キリストを信じる者として、日々の決断を行っていくこと。
2つ目の段落の偽預言者をある人は「キリストを傷つける人」と言う。それはパウロの言葉を借りれば、「十字架に敵対する人」。このような人が教会に入り込む。その人を見分けるようにとイエスは言われた。見分けるために「教理」を大切にしたい。教理とはキリスト教の正統的な理解。教会が歴史の中で重んじた教理を通して私たちは偽物と本物を見分ける目を養う。これもまた私たちが心にとめておきたいこと。