2023年05月14日「土台のある人生」

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聖書の言葉

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。マタイによる福音書 7章24節~29節

メッセージ

山上の説教の最後で主イエスが語られたのは「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」者について。これらの言葉、とは山上の説教のことだと理解できる。そして7章13節から山上の説教の終わりにかけては、この行うという言葉が良く用いられている。神の言葉が語られたら、聞いた者は何を行うのか。そのことが問われる。

主イエスは言われた。聞いて行う者は賢い者で、双ではないものは愚かな者だ、と。非常に厳しく聞こえるのではないか。しかし何も主イエスは脅しをしているわけではないのである。イエスはあやふやな幸い、恵みを約束しているのではない。その言葉が確かであるが故に、厳しくならざるを得ない。言葉が真実であれば、そこには厳しさが当然含まれる。真剣さ、と言っても良いだろう。イエスはこの真剣さを持って私たちを招くのだ。そしてみ言葉を聞く者はその生活が変わってくる。毎週、礼拝に来ること。お祈りをすること。これらは信じるようになったから訪れる変化ではないか。

さてイエスが13節以後で語られた3つの教え(13~14,16~20,21~23)は、良いか悪いか、善悪で語られてきた。しかしここでは賢いか賢くないかが問われている。賢さとは先を見据える人のこと。家を建てる時、岩を土台にする人である。この岩とは、イエス・キリストのこと(マタイ16章18節、第1コリント3章11節)。そうであるならば、これは単純に考えて、賢い人とはイエス・キリストを信じる人々。イエスが求めた「これらの言葉」とは前述したように山上の説教の教え。しかしそれは、個別具体的なものというよりも全体を通して伝えたこと。それは神を天の父とする生き方であり、このお方に祈りながら生きていく幸い。そのように生きる者はゆるぎない生き方なのだ。

愚かな者とはキリスト以外を土台とする者。そのような人は最後に倒れる。このところにある川があふれ、風が吹くとは終末の裁きのこと。最後の裁きに耐えるのは、キリストという土台があるから。そうだとすれば、この地上における苦しみも、キリストという土台によって私たちは支えられるのだ。

このキリストの教えをイエスは権威あるものとして教えられた。モーセがやがて与えられると言われた真の預言者。このキリストの言葉を聞いた時、群衆は驚いた。私たちもまた、この説教を通して驚きが与えられた。それだけではない。私たちがこの説教を生きる時、私たちの生涯は驚きに満ちていく。