2023年06月04日「キリストの権威に従う」
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キリストの権威に従う
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 7章28節~8章4節
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聖書の言葉
イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」マタイによる福音書 7章28節~8章4節
メッセージ
山上の説教をイエスが語り終えると群衆は驚いた。キリストが権威あるお方として語られたからである。群衆は律法学者の権威とは異なる権威をキリストから感じたのだ。律法学者の権威は他人の権威によるもの。この権威は旧約の登場人物、たとえばモーセに由来する。それに対してキリストはご自身の権威で人々に教えられたのだ。それはモーセを超える権威である。神の権威といってもよい。それだけではない。人々はキリストの言葉にも驚いた。それまで聞いたことのなかった言葉を聞いたのだ。そして、その言葉に人々が従ったのだ。
マタイは旧約聖書とイエス・キリストの結びつきを強調する。旧約聖書はヘブライ語という言語で書かれている。ヘブライ語において「言葉」と「事柄」は同じ。特に、神の言葉は事柄を引き起こす。キリストの言葉が何かを起こすという神の力を示している。これがキリストの言葉。この山上の説教は弟子達が聞き手である。群衆を見捨てることはなく、その言葉は彼らに届いたのだ。この群衆がイエスの後に従った。しかし、群衆は後にイエスを十字架につけた。この描写は、キリストが群衆を見捨てなかったことと対比される。マタイの読者は、かつて自分もキリストのことを深く理解しなかった1人の群衆であったことを見いだすだろう。
キリストの言葉と不思議な業を目撃した群衆は、キリストの権威に触れた。8章から9章にかけては、キリストの権威が癒しと結びついていることが示されている。マタイはキリストの権威を強調する。特に、28章18は天と地の一切の権能を授かっていることを伝えている。この権威が鮮やかに示されるのは終末の時。キリストはこの世界を完全にご自分の統治下におかれる。そこには裁きが含まれる。ご自分の⺠を御許に集め、永遠の御国へと入れて下さる。それは罪と死に対する完全な勝利の時。
キリストは地上の生涯においてこの権威を病に対する勝利、つまりはいやしの御業を通して示された。その癒やしはすべて弱い人のためになされた。8章1〜4は重い皮膚病、5節〜13節は異邦人、14節〜17節は女性のいやし。キリストの力は群衆のような大勢に向けられる一方で、いやしが必要なひとりひとりにまで及んでいる。
キリストの権威を考える際に忘れてはならないのは、十字架と復活のキリストである。彼は私たちのために死に、復活し、その権威に従って私たちを導いてくれる存在である。