2023年06月18日「キリストにいやしていただく」
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キリストにいやしていただく
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 8章14節~17節
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聖書の言葉
イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」マタイによる福音書 8章14節~17節
メッセージ
マタイによる福音書はキリストを権威者だと伝えている。キリストは王としてこの世界を治める真の神。しかしながらキリストは人々の上に立つのみならず、人々に寄り添い、伴うお方でもある。このところ見ている聖書箇所にはキリストの癒やしの出来事を伝えている。本日の聖書箇所もキリストの癒やしの出来事。これまで見てきたものが、宗教的な汚れからの解放(1節〜4節)、異教世界への神の国の訪れ(5節〜13節)だったのに比べてこのところはシンプルな病の癒やし。しかしながらイエス・キリストによるペトロのしゅうとめの癒やしは、単に病が治ったという以上の意義を持つ。彼女は、高熱から癒された直後に、イエス・キリストをもてなす行動を示す。これは、単に体調が回復したからだけではなく、イエス・キリストの恵みを受け、神が自身の家を訪れた喜びから来るものだ。イエス・キリストは、家庭を訪れ、病を癒す存在として描かれる。家庭が舞台となっている。それは神が私たちの生活に深く関わってくださるということ。
イエス・キリストはまた、悪霊に取り憑かれた者たちを癒された。この「悪霊に取りつかれる」という表現は、現代でいう未知の病気や症状を表しているのだと考えられる。彼らは、言葉だけで癒される。古代の時代、多くの悪魔払いがいくつもの命令を重ねたのに対して対照的だといえるだろう。そしてこれはイエス・キリストの権威と言葉の力を示している。
キリストは多くの人々を癒やされた。この癒やしは夕方行われた。この日は安息日だったので夕方というのは安息日が終わり、新しい日が始まったということ。この当時、1日の始まりは夕方からだった。それはつまり、人々がまず安息日を遵守し、その後にイエス・キリストのもとへ来たことを示している。こうした杓子定規に安息日を守る姿をイエスは後の方で批判しているが、彼らのこの行動は、礼拝を第一に考え、安息日を重んじる姿勢を示すものだ。
このようにイエス・キリストは病を癒すお方として神として描かれる。ある人は、聖書の伝える真の神は「バイオフィラスの神」という。これは命を愛するということ。キリストは私たちの病を担う。そして、病を通じて人々はイエス・キリストと出会い、神をより深く理解する。それ故に、クリスチャンは病や死を必要以上に恐れる必要はない。これらもまた神との出会いの機会であり、神を深く知る日々である。