死んでいる人と生きている人
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 8章18節~22節
イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」マタイによる福音書 8章18節~22節
本日の説教を準備する中で目を通した書物の表題がこのようになっていた。「二人の自称追随者」。キリストの弟子とはキリストの後に従うもの。だからこそ、追随者。本物の追随者と自称追随者の違いはどこにあるのだろうか。
イエス・キリストの周りには多くの人々が群がった。キリストは彼らから距離を取るために、向こう岸に行こうと言われた。そのとき、1人の人が追いかけてきた。この人は律法学者。彼はキリストの話を聞いていたのだろう。「先生」とキリストのことを呼んでいる。「先生」というのは部外者がキリストを先生とよぶことが多く、キリストの弟子達は「主」とよぶことが多い。こうした言葉使いから、この人はキリストを救い主というよりかもは律法の先生だと考えていたと思われる。この人は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う。キリストはこの人に「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(20節)といわれた。キリストはこの人に何を問うているのか。キリストはこの人に生き方を問うている。単に良いお話を聞けるからというのではなく、全てを神に委ねる生き方。この生き方こそキリストの生き方であり、キリストに従うとは神に委ねる生き方。
二人目の「自称追随者」は父を葬りに行かせて欲しいと願った。これは危篤状態ではなく、死ぬまで面倒をみること。このこと自体は息子の責任として旧約聖書にみられるもの。決して悪いことではない。しかしながらイエスは「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われた。死んだ者とはキリストを信じていない人々のこと。キリストのこの発言はいわばショック療法である。家族を捨てれば良いということではない。しかし、キリストに従うということは真剣さが求められるということ。キリスト十字架に向かって真剣に生き抜かれた。キリストに従う者も、真剣さが求められる。キリストに従うこと。それが第一。
厳しい道に聞こえる。しかし、キリストが生き抜かれたその先には復活があった。死への勝利があった。キリストに従う私たちにもまた、この勝利が約束されている。だからこそ、キリストは従うようにと私たちを招くのだ。そしてこの歩みは冒険だ。ある人はキリスト者の生き方を「生の冒険」と呼んだ。キリストの後に従う生き方、復活を目指す生き方は神の恩寵の中で自らの罪と戦いつつ、最後まで走り抜ける。これこそが、生きている人の生涯。