2023年07月09日「嵐から平安へ」

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聖書の言葉

イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。マタイによる福音書 8章23節~27節

メッセージ

この箇所は教会で愛されてきた。伝統的に、教会は船を自らの姿と重ね合わせてきた。私たちの物語としてこの箇所を読んできた。キリストの弟子たちとは船に乗る人々。弟子たちはキリストの後を追う人々であり、キリストに従う人々。彼らはイエス・キリストと共に船で向こう岸に渡る途中、嵐に遭遇します。しかし、キリストは船の中で眠っている。弟子たちは恐れおののきますが、キリストは嵐を静め、弟子たちはキリストの権威に驚かされるのです。この聖書箇所は、キリストの権威を伝える。言葉によって権威が明らかにされたのが山上の説教であり、その権威がキリストの御業によって証明されたのがこの8章と9章。

このエピソードは前回の聖書箇所と続きの一部。キリストが枕を持たないと言われたのは、神に頼る姿を表現している。そしてこの聖書箇所では、キリストは船の中で眠る。キリストは船の中に自らの寝床を求めた。それは人々のために駆けずり回り、肉体的な疲れを覚えたキリストの姿である。

嵐の中、弟子達はあわてふためく。彼らの多くは漁師だった。船も湖も慣れていた。その彼らがキリストに助けを求めている。そして、彼らをキリストは助けた。この助けるというのは救いということ。「おぼれそうです」と弟子達は言うがこれは「滅びそうです」ということ。マタイはこのところで、ただ単にキリストが嵐を静めたということだけでなく、このお方が滅びから救ってくださる御方であるということを伝えて

いる。

そしてキリストは私たちの信仰が小さくても、救ってくださるお方なのだ。船にキリストがいながら、おぼれそうです、と叫ぶことはキリストに信頼しきれていないので、これは不信仰だといえなくもない。しかしキリストは彼らの不信に目をむけるのではなく、小さな信仰にも応えてくださった。キリストの力に頼り、彼の守りに身を任せることが平安をもたらすのだ。

この「嵐」はルカやマルコとは異なり「揺れる」という言葉をマタイが当てているのは興味深い。信仰が揺らぐとき、私たちは自分自身の深いところに出会う。その時、私たちは弟子達と同じようにキリストの力に驚く。信仰の力とキリストの権威に触れることで、私たちは安らぎと驚きに満たされていく。私たちの小さな信仰でも、キリストは私たちを救い上げてくださる。私たちの乗る船にはキリストがいてくださる。