2023年08月06日「罪人を招くイエス」
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罪人を招くイエス
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 9章9節~13節
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聖書の言葉
イエスは、そこから進んで行き、マタイと言う人が収税所に座っているのを見て、「私に従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスが家で食事の席に着いておられたときのことである。そこに、徴税人や罪人が大勢来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたがたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マタイによる福音書 9章9節~13節
メッセージ
本日の聖句はキリストの弟子の一人であるマタイが登場する。マタイはマタイ福音書を記した人物だと考えられている。マルコやルカではレビとなっているが同一人物。この箇所はいわばマタイの証し。証しとはどのようにキリストと出会い、キリストとの出会いがこの私にとってどのような意味を持つのかヺ証言すること。それと共にこの箇所ではイエスが罪人を招くというのがテーマ。マタイは徴税人であり、当時のユダヤ人社会では、彼のような職業を持つ者は裏切り者とされ、罪人と見なされていた。彼らは自分たちの仲間から税金を取り、それをローマ帝国に献げていたからだ。それだけではなく、徴税人は規定よりも多くの税金を徴収して私腹を肥やしていた。これはむさぼりの罪。このように徴税人は売国の人であり、神の律法に反する人物として、人々から疎まれていた。しかし、イエスはこのような罪人と見なされていたマタイをはじめ大勢の人を招き、共に食事をし、親しく過ごした。
このエピソードは、キリストが神の国、神の祝宴に私たちを招いてくれる喜びを示している。イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と語った。この「招く」という言葉には、祝宴に招待するという意味が含まれており、神と共に過ごすその幸いな時が与えられることを象徴している。
一方で、当時のユダヤ人社会の中でも、ファリサイ派のような人々はイエスの行動を軽蔑の目で見ていた。ファリサイとは「分離」という意味。彼らは自分たちは清いと信じており、罪人とみなされていた人々を遠ざけていた。そうすることで清さを保とうとした。しかし、イエスはこのようなファリサイ派の人々に対して、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、い
けにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」と語った。この言葉は神が真に求めているのは、儀式や形式ではなく。憐れみ憐れみとは旧約聖書でヘセドという言葉。神の尽きることの無い愛、それがヘセド。キリストは人間に神のような愛を求めておられるのではない。もちろん、神を愛することは大切だが人間には限度がある。このところでキリストが「憐れみであって、いけにえではない」と旧約を引用したのは、儀式ではなく愛こそが信仰の本質であることを伝えるためである。キリストは私たちを神と生きる幸いに招いてくださっている。