2023年08月27日「生かされて生きる」

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聖書の言葉

もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。ローマの信徒への手紙 8章11節

メッセージ

本日の聖書箇所を含む、ローマの信徒への手紙8章はこの手紙の中心部。キリスト教を信じる私とはどのような存在なのかを伝えている。 キリスト者、クリスチャンとは何か、ということでもある。

お読みしたのは8章11節であるが、このところに「あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」とある。これは聖書独特のとらえ方である。私たちが死ぬとはどういうことか。普通に考えれば、それは息が途絶えるということだろう。人はいつの日か、死ぬ。しかし、この手紙を書いたパウロは何も将来いつか死ぬということをいっているのではない。この人が感じていたのは生きているのに、もうすでに死んでいるかのようなそのような感覚である。この手紙の7章24節のところではパウロの死に対する切実感が記されている。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。7章24節はいつの日か死ぬというのではなく、死に定められたという。もうすでに死んでいる、死の体、ともいうべきそうした言葉である。もちろん、この手紙を書いたパウロはこの 時、まだ生きている。それなのに、もうすでに死んでいるかのような、そんな思いに駆られているのだ。

どうして、パウロはこのようにいうのだろうか。パウロにとって、死んでいるか生きているかは、なにも息をしているかどうかではない。パウロにとってそれは、律法。 この律法に照らし合わせて、 自分が生きているかいないのかを判断する。この律法を守れないものは死を待つのみ。このように律法を規準とする生き方は矢印が自分に向いているということ。それに対して、キリストを通して得られる命は矢印が神に向 く。キリストを信じるとき、様々な縛りから解放される。そこには赦しがある。裁きではなく、愛がある。命がある。生ける屍のような生き方ではない。キリストにある命に向かう生き方なのだ。

私自身、クリスチャン。そこで、クリスチャンとはどのような存在なのか、改めて考えてみた。クリスチャン、イエス・キリストを信じる人。この人達の特徴は、受動態、受け身であるということだと思う。言葉を聞いているとわかる。○○された、 ○○していただいた、というようなことが教会ではよく語られる。これは、信仰をもつと、神によって生かされている。そのことを知った人。この神の恵みに憩う受け身の姿勢がキリスト教信仰なのである。