2024年02月25日「あなたのための良いしらせ」

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あなたのための良いしらせ

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マルコによる福音書 1章1節~15節

音声ファイル

聖書の言葉

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。マルコによる福音書 1章1節~15節

メッセージ

福音書はそれぞれ特徴があるが、マルコによる福音書は特にイエス・キリストが神の子であること、そして勝利者であるイエス・キリストの姿に焦点を当てている。本日の聖書箇所も誘惑に勝利するキリストの姿を見る。マルコによる福音書は多くを語らないがキリストが誘惑に対して勝利したという事実に重点を置いている。

荒野での誘惑を受ける前にイエス・キリストが洗礼を受けられた。洗礼は罪の赦しのために行われるものであり、神の守りと導きが確かにあることのしるし。キリストは洗礼を受けられて直ちに荒野で悪魔の試みに直面した。この出来事は、私たちの信仰の旅においても重要な意味を持つ。洗礼は、私たちがキリストの支配下に入ったことのしるしであり、信仰の始まりであるが、それは同時に誘惑と試練の始まりでもある。信仰とは試練がなくなることではない。試練は時に与えられる。そのような時でも、神が共にいてくださることを覚えて感謝する恵みが信仰者には与えられている。

荒野の試みは、イエスが私たちの弱さに同情し、私たちが経験する試練においても共にあることを示す。ヘブライ人への手紙ヘブライ人への手紙にこのように記されている。

「4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 4:16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。神が荒野でイエスに出会ったように、私たち自身も試練の中で神に出会う。そのような者にキリストは同情の思いをもって接して下さる。荒野は人里離れた場所。それは死を彷彿とさせる場所。しかし、神の民は荒野で神と出会った。荒野を神と共に旅をした。それが出エジプト後のイスラエルの民の歩みであった。荒野でイエスは誘惑に屈せず、サタンを退けられた。これは私たちが経験するこの世の荒野での勝利を象徴している。私たち自身が試練に直面するとき、まるで荒野を歩いているかのように思う時がある。しかし、その荒野はすでにキリストが通られた場所。イエス・キリストが既に勝利を収めていることを思い出し、その信仰と力によって励まされる。

この勝利は、最終的にキリストの十字架と復活によって完遂される。キリストは私たちの罪を背負い、誘惑を退け、最終的な勝利を達成した。私たちは自力で誘惑を克服することはできないが、キリストによりたのみ、彼の力によって歩み続けることができる。荒野での誘惑に勝利し、復活されたイエス・キリスト。このお方が私たちの先におられる。私たちはキリストの勝利と、私たちの信仰旅の中での神との出会い、そして試練における神の働きを深く理解することができる。