2023年09月03日「元気になりなさい」

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聖書の言葉

イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。このうわさはその地方一帯に広まった。マタイによる福音書 9章18節~26節

メッセージ

今日の聖書箇所には「指導者の娘の死」と「出血を患う女性」という二つの物語が含まれている。状況は異なるが両者は絶望と死に直面していた。暗闇にいたといってもよい。キリストがその暗闇に光として現れ、命を取り戻させた。しかしながらこの物語はただ単に病が癒されたということはない。これはいわば一時的な救済である。二人はいずれ死を迎える。しかしながら、まったく意味がないというのではない。キリストはこの二人の苦痛を緩和された。そしてそれだけではなく永遠の命への希望を与えたのだ。死と病は避けがたい現実であり、その前に私たちは無力である。しかし、キリストが示すのは、そのような限界を超えた希望と愛である。指導者も⻑血の女性も、自分たちの問題をキリストに投げかけ、その結果、身体だけでなく魂まで癒された。

指導者(マルコ福音書ではヤイロ)は、死んだ娘を救うためにキリストに助けを求めた。もうすでに死んでいたのにキリストなら生き返らせられると信じていた。キリストはヤイロの後ろに従った。マタイ福音書ではキリストは人々の前を歩くお方として描かれる。しかしこのところでは後ろを歩かれたのだ。これは、キリストが人々の痛みと苦しみに深く寄り添っていることを象徴している。ヤイロが持つ世俗的な権力や財産も、死の面前では無力である。しかし、キリストの愛と力はその限界を超える。

⻑血の女性もまた、社会的・宗教的に「汚れた」とされていた。しかし、彼女がキリストの服の房に触れた瞬間、その汚れも病も消え去った。汚れた人に触るのは禁忌である。キリストは、社会的な階層や規範を超えて、働かれる神の愛を具現化される。

こうした癒やしの物語は私たちを苦しめる。私たちは祈る。その祈りが必ずしも即座の癒しや救済をもたらさない場合もあるからだ。それでも私たちが祈るのは、キリストによる最終的な救済と復活の希望がある。その希望が、私たちがこの世で直面するいかなる困難や試練にも耐える力となる。だからこそ、私たちはあきらめずに祈る。癒されるかどうかはわからない。癒されたとしてもいつかは死ぬ。それでも私たちには復活の希望がある。この希望に生きること。この希望に生きる時、いや、生かされる時、私たちは顔をあげ、イエスにより頼む。そしてイエスの言葉を聞く。「元気になりなさい!」