2023年09月10日「二つの態度」

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聖書の言葉

イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。
二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。マタイによる福音書 9章27節~34節

メッセージ

二人の盲人はイエスに「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と懇願する。ダビデの子よ、という言葉に注目したい。マタイによる福音書では、イエス・キリストが「ダビデの子」であることを特に強調している。ダビデはイスラエルの王であり、信仰の人である。ダビデを通してイスラエルは神との結びつきが固くなった。この「ダビデの子」という表現は、キリストを通して神との結びつきが確かになることを伝えている。また、ダビデの子であるソロモンには癒しの力があるという当時のユダヤ人の伝承もこの呼び名の背景にある。キリストもまた癒すお方である。特に、マタイ福音書はキリストの権威と癒しの力を強調している。

マタイが盲人を二人としている点も興味深い。他の聖書箇所をみると盲人は一人である。この二倍化は、キリストの御業の確かさを強調するためである。また、盲人のいやしの記事がマタイ福音書の中で繰り返されているのは旧約聖書のイザヤ書との関連性も考慮に入れられている。イザヤ書もまた、盲人の癒やしを繰り返して語る。

キリストは「憐れみ」に富むお方である。この憐れみは、旧約聖書の言葉で「ヘセド」と呼ばれ、永遠の愛を意味する。キリストはこの永遠の愛、すなわち憐れみを具現化した。この憐れみを受け取るための条件は、キリストに対する信仰である。信仰があれば、神の恵みはより明確に与えられる。二人の盲人は言葉で信仰を告白したといえるし、口の利けないない人はキリストのもとに来るという行動でその信仰をあきらかにした。それにたいして、ファリサイ派の人々は悪霊によって癒したと揶揄した。キリストの恵みを認めなかったのだ。

私たちは、このファリサイ派の姿をどう理解するべきだろうか。神を信じることのできない不幸な人々だと思うかもしれない。反面教師にすることもできるだろう。その一方でこうしたファリサイ派の人々の姿を自らに重ねて考えてみるとき、自分のなかにある「内なるファリサイ派」ともいうべき存在に気付くのではないか。それは信仰を持ちつつも、どこかで神の恵みを否定している。そんな自分である。

私たちは時に、この両者の間で揺れ動く。だからこそ、神の憐れみに寄りすがりたい。「あなたがたの信じているとおりになるように」とイエスは言われた。私たちはイエスをどのように、どれくらい信じているのだろう。このお方に不可能はない。大胆に、キリストに祈ろう。叫びを上げよう。憐れみをうけるために。