2023年09月17日「収穫の主に願う」
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収穫の主に願う
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 9章35節~38節
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聖書の言葉
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」マタイによる福音書 9章35節~38節
メッセージ
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(35節)。この一つ一つの働きが救い主としてのお働き。この働きをキリストは弟子達にお委ねになられた。それが10章1節からの弟子達の派遣。9章35節は4章23節の繰り返し。このふたつの言葉は、いわば枠を造っており、この中にある物語、5章から7章の山上の説教も、8章と9章の癒やしのものがたりも、全てこの教え、福音を宣べ伝え、癒すお方としてのキリストを伝えている。
なぜ弟子たちを派遣したのか、キリストが弟子たちを派遣した理由、それが憐れみである。キリストは憐れみの思いを持って人々を見つめた。その憐れみの故に弟子たちを人々のところに使わしたのだ。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた(36節)」。キリストは町や村を残らず回る中で人々が困り果て弱り果て打ちひしがれているのをご覧になった。打ちひしがれていると36節にあるが、これはトラブルに巻き込まれているという意味である。悩みの中にあると言っても良い。この時代、ローマ帝国の失業率は非常に高く、多くの人々が経済的に困窮していたと言われている。そうであればキリストのところに持ち込まれるトラブルというのは、病気だけでなく様々な悩みや思い患いもそこには含まれただろう。このように経済的に困窮する人がいる一方で、ローマ帝国は、ローマの平和と呼ばれる時代を謳歌していた。多くの神殿が建設され立派な建物が建てられた。国は栄えていたと言っても良い。このような豊かな人はキリストのところに来なかったのか、と言うとそうではないだろう。様々なトラブルを抱えていた。その一人ひとりをキリストは憐れまれたのだ。
だからこそ、弟子達の派遣はキリストの御業である。キリストはいわれた。収穫は多い。キリストの憐れみを必要としている人はまだまだ多い。その人のところに、弟子達を遣わす。弟子達は遣わされたところで、働く。収穫は主が与えて下さることを願いながら。