2022年01月16日「信仰の始まり」

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14節 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
15節 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
16節 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。
17節 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。ローマの信徒への手紙 10章14節~17節

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説教の要約

「信仰の始まり」ローマ信徒への手紙10章14節~17節

本日の御言葉は「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう(14節)」、とこのように問いかけられて議論が始まります。これは先週学びました「主の名を呼び求める者はだれでも救われる(13節)」、この信仰告白以前の問題に関わる問いかけで、続けて、「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」、とどんどん遡り、最終的に、「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう(15節)」と福音宣教の原点まで遡ります。つまり、主なる神の派遣と委託がなければ、福音宣教は存在しない、という大切な真理がここで示されているわけなのです。福音宣教者は、主から遣わされて、「良い知らせを伝える者(15節)」以上ではありません。遣わされたままに「良い知らせを伝える」これが福音宣教者の使命なのです。

その上で、福音を語る側だけでなく、福音を受け取る側についても指摘されます。「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。(16節)」、良い知らせを聞く側にも問題がある、ということです。ただ神の憐れみにより、「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」、とちゃんと福音宣教者が用意された。ところが、「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません」、これもまた現実であるのです。福音は、ユダヤ人と異邦人の壁を破壊して、全ての国民に向けられたのにも関わらず、多くのユダヤ人が福音に背を向けていて、それがパウロに突き付けられた現実でもあったからです。パウロは、このユダヤ人の姿も、旧約聖書の御言葉を引用して証拠聖句にします。それが、続きます「イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています」この部分です。これは、旧約のメシア預言のクライマックスと言えますイザヤ書53章の通常「受難の僕」と言われている御言葉のプロローグ部分で、この後、とてもメシアとは思われない主の僕の惨めな姿が展開されながら謳われていくわけです。 

イザヤの時代からパウロの時代に至るまで、イスラエルのメシア像は、あのダビデ王の再来であり、圧倒的軍事力と政治力で、異邦人を蹴散らし、この地上にダビデの王国を回復させてくれる、そう言う偉大な支配者でした。しかし、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、(イザヤ53:2、3)」これがイザヤの預言したメシアなのです。当然、この男のどこがメシアなのか、とこのイザヤの時代に、このような惨めなメシアを信じる者は誰一人いませんでした。しかし、これがそのおよそ600年後に、キリストの十字架で実現したのです。キリストは、確かにイザヤの預言通り、受難の僕として神の民の犠牲となって十字架で死なれたのです。

 ですから、「イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています」、とパウロが、このイザヤのメシア預言を引用します時、旧約のユダヤ人が信じなかったように、今の時代のユダヤ人も信じない、何時の時代も神の民が不信仰であることを痛烈に批判しているのです。 イスラエルは、いつでも惨めなメシアの姿、この十字架の主イエスに躓き、信じることが出来なかった、それが「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません」、この御言葉に集約されているわけです。そしてこれは、旧約時代からパウロの時代のイスラエルだけの話ではありません。いつの時代も、「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません」、この現実が突き付けられているのです。それは、この福音の救い主が、十字架の主であり、しかも、福音宣教に仕える私たち自身も、この世的には何の取り柄のない貧しい者であり、教会も小さな場所だからです。この惨めな私たちが、惨めな救い主を宣教する時、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」、この現実が突き付けられているわけです。

しかし、この事態は、信仰が生み出されるためには何らハンディにはなりません。むしろ、この惨めな現実の中で信仰は始まるのです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(17節)」、と御言葉がいうように、信仰は、私たちの貧しさや、教会の小ささ、そういうものとは無関係に与えられるのです。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」、これが信仰の始まりなのです。ここで言われていますキリストの言葉とは、広く言えば聖書全体です。しかし、端的に申し上げれば、キリストの十字架と復活です。むしろ、聖書全体がキリストの十字架に集約されている、だからキリストの言葉なのです。御言葉の説教は、旧新両約聖書のあらゆる部分から語られますが、大切なのは、どの聖書個所が与えられても、必ず主イエスの十字架が語られることです。

この16、17節で3度繰り返される、この「聞くこと」という言葉は、ローマ書ではここにしか見られません。この言葉は、聞くこととも訳せますが、同時に「説教」とも訳せる言葉で、「信仰は説教により、しかも、キリストの言葉の説教によって始まる」、とこのようにも訳せるわけです。パウロは、キリストの言葉と御言葉の説教が一つであることを強調したいのです。説教とは、与えられた御言葉が要求する通りに、キリストの十字架を語ることです。どんなに、構成が素晴らしくて、滑舌が良くて、論理が通っていても、キリストの十字架がそれに隠れているのなら、それは御言葉の説教ではないのです。

 加えまして、この「説教」とも訳せます、この、「聞くこと」、という言葉と同じ語源を持つ字に「従順」という非常に大切な言葉があります。ギリシア語で「下に」、という意味のὑπὸという前置詞、英語ですとunderでありますが、これをこの「聞くこと」、という言葉の前につけると「従順」という言葉になるのです。まるで、へりくだって聞くような姿の字であります。ここに注目したいのです。

 このローマ書の講解説教を始めたばかりで、プロローグ部分を学んでいる時確認したのですが、「従順」、この言葉は、ローマ書の執筆目的にかかわる大切な言葉で「信仰による従順」という表現で、プロローグ部分とエピローグ部分で繰り返される言葉、このローマ書の枠組みとなっている言葉なのです(1:5と16:26を参照)。信仰は、キリストの言葉の説教から始まる、そしてその説教の目的は、信仰による従順に導くためである、これがローマ書全体の構造からも明確にされているわけです。同様に、御言葉の説教は、罪人の信仰を始め、聴衆を信仰による従順に導く目的で語られなければならないのです。私たちは、当たり前のように、毎週神の御前に招かれ、御言葉の説教が与えられていますが、そのために、主なる神様がどれだけ働いてくださっているかを思いめぐらすことがありましょうか。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」何という御言葉に対する混乱でありましょうか。しかし、主なる神様が、毎週礼拝を整えてくださらなければ、この混乱はそのまま私たちの姿ではありませんか。私たちは、道を誤り、バラバラに歩みだす羊の群れですが、主なる神は、毎週「良い知らせを伝える者」をこの場所に遣わしてくださり、あろうことか何ともつまらない者まで用いて、キリストの言葉の説教を与えてくださる、だからこの場所で信仰は始まり、私たちは信仰による従順に導かれるのです。