2022年01月02日「信仰告白と救い-Ⅰ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

5節 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
6節 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
7節 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
8節 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
9節 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10節 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
11節 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
12節 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
13節 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
ローマの信徒への手紙 10章5節~13節

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説教の要約

「信仰告白と救い-Ⅰ」ローマ信徒への手紙10章5節~13節

本日与えられましたこの10:5~13の箇所は、非常に大切な御言葉であると同時に、よく理解するためには、難解な要素を含んでいますので、慎重かつ丁寧に見ていかなければなりません。そう言う事情で、今週と来週の2回に分けて、今週は5~8節までを、そして9節以降は、次週再度教えられたいと願っています。

本日与えられた5~8節までの部分では、先週の御言葉の最後の「キリストは律法の目標(終わり)であります、信じる者すべてに義をもたらすために。(4節)」、この真理が、レビ記と申命記の御言葉の引用によって証明されていきます。まず5節でパウロは、レビ記18:5から引用し、「モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。」とこのように始めます。しかし、これは今までパウロが繰り返し語ってきた信仰義認ではなくて、行い義認の立場です。ここで約束されている、「掟を守る人は掟によって生きる」、一体これが可能なのでしょうか。結論だけ最初に申し上げれば、答えはNOで、それは、神の民イスラエルの歴史が証明しているのです。

レビ記は、イスラエルが奴隷状態にあったエジプトから脱出して、1年から2年の間に神様から与えられた戒めの記録であります。しかし、そのすぐ後のカナン偵察の時にイスラエルの民は、怖気づいて、ヨシュアとカレブをのぞいたすべての者が、エジプトに引き返したほうがましだ、と泣き言まで言いだし、神様に逆らって、カナンの地に入ろうとしませんでした。それが原因で、この世代の者は、その後40年間荒れ野をさまよい、誰一人命を得てカナンの地に入ることが出来ませんでした。指導者であるモーセまで、ピスガの頂からカナンの地を眺めながら死んでいきました。ヨシュアとカレブも、神様の掟と法を守ったから生き残れたのではありません。むしろ、あの出エジプトの圧倒的な神の力を目撃した2人は普通の判断をしただけの話です。ですから、「掟を守る人は掟によって生きる」、と約束されますが、歴史的事実として、掟によって生きた者は、一人もいなかったのです。

その上で、続く6~8節でパウロは、今度は申命記30:11~14御言葉を引用しながら証拠聖句といたします。ここで大切なのは、前の5節でレビ記を引用して、エジプトを脱出した世代が、誰一人律法によって命を得なかったという歴史的事実を示した後で、パウロがこの申命記を引用している理由です。実は、レビ記と申命記の間に40年の歳月が流れていて(申命記1:3参照)、申命記は、40年後の新しい世代の人々に語られているモーセの告別説教なのです。このレビ記に対する申命記のポジションを把握することが、本日の御言葉を理解するうえで非常に大切です。5節と次の6節までの行間に40年の時間が横たわっている、とこのように理解していただくのがこの箇所を読み解くカギになるからです。つまりここでも、5節の「律法による義」、と6節の「信仰による義」が激しく対立しているのです。しかもその対立の間に、40年という時間が横たわっていて、ただならぬ説得力を与えているのです。出エジプトの後、自らカナンの地に入ることを拒み、40年間荒野をさまよい死に絶えたイスラエルの姿は、「掟を守る人は掟によって生きる」、誰一人これができないことを証明していたからです。それゆえに、「律法による義」も不可能であることが明確にされたのです。

パウロはこの事実を突き付けながら、申命記を引用して、信仰による義についてキリストとの関係で説明しているわけです。そしてその結論が、「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。(8節)」これなのです。この御言葉とは、神の言葉であり、すなわち主なる神様そのものです。主なる神が御言葉によって、イスラエルの只中に宿ってくださる、ということです。

イスラエルは頑なな民でした。40年たっても、やはりその頑なさは一向に治りませんでした。それでも、その最初から最後まで、主なる神はイスラエルを守り導いてくださり(申命記8:4、5参照)、見捨てられることがなかったのです。ですから、この申命記を引用してキリストとの関係で、「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」、とローマの信徒たちにパウロが言います時、この御言葉とは神の御子主イエスキリストです。「初めに言葉があった(ヨハネ1:1)」、と宣言される最初のお方であるにもかかわらず、卑しい姿で地上に生まれ、十字架の贖いによって、律法の終わらせてくださった主イエスキリストです。そしてさらに大切なのは、パウロが続けて「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」、この言葉を、「これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」、と宣言していることなのです。律法の終わりである主イエスが聖霊によって、私たちと共におられる、インマヌエルである、それが、「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」、この状態だからです。そして、これが信仰告白なのです。信仰告白とは、最も簡潔に申し上げれば、「十字架の主イエスが私の主である」、と公に言い表すことです。しかし、それは、私の認識から導き出された結論ではありません。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」、この神の言葉である主イエスがともにおられる、だから、イエスは主である、と私どもは告白できるのです。これが信仰告白であり、信仰告白とは、私が主イエスに属すものであり、主イエスがともにおられることの公的表明に他ならないのです。

本日は、レビ記で「掟を守る人は掟によって生きる」、と御言葉は約束しますが、誰一人、これが出来なかったことが歴史的事実として示され、その上で申命記の御言葉によって神の憐れみが際立ちました。しかし、一人だけおられるのです、「掟を守る人は掟によって生きる」これを実現した方が。それでも、このお方は、「掟を守る人は掟によって生きる」のではなく、掟を守ったのに掟によって死なれたのです。そのお方こそ私たちの主イエスキリストです。

「ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。(ヨハネ19:7)」、これが主イエスを十字架につけた理由だからです。律法を完全に守られた方が、律法によって十字架で殺された、掟を守ったのに掟によって死なれたのです。しかし、これによって、キリストが律法の終わりになったのです。

この本日の御言葉の5節から8節までで証明された4節の「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために」、実にこれは、律法を守ったお方が、律法によって死んでくださったことによって実現したのです。掟を守ったのに掟によって死なれた方によって、掟など守れやしないこの私がまるで「掟を守る人は掟によって生きる」かのように見なされ、何のお咎めもなく天の国に招かれる、それが、「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」この状態なのです。何という恩恵でしょうか。そして、これが最も鮮やかに実現しているのが礼拝であり、本日執行される聖餐式です。私たちは、一週間罪を積み重ねて歩んできたのにも関わらず、何のお咎めもなしに、神の御前に立って礼拝をおささげすることが許されている。そればかりか、キリストの宴に招かれ、飲み食いすることまで許されているのです。この年も初めから終わりまで、主の日の礼拝に全力を注いでいきたい、喜びと感謝をもって毎週おささげしたい、と願わずにおられましょうか。