2021年10月31日「重いひふ病を癒す主」
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重いひふ病を癒す主
- 日付
- 説教
- 中山仰牧師
- 聖書
ルカによる福音書 5章12節~16節
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聖書の言葉
5:12 イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。
5:13 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。
5:14 イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」
5:15 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。
5:16 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。ルカによる福音書 5章12節~16節
メッセージ
説教の要約
「重いひふ病を癒す主」ルカによる福音書5章12節~16節 中山仰牧師(田無教会牧師)
ある日突然、隔離されなければならない病気と宣告されて、家族から切り離され、収容所に入れられて、その家族とも連絡を取れず、犯罪者のように扱われる理不尽さを味わった時、一体どんな思いをするでしょうか。誰も味方してくれない。家族はもちろん、友だちとも連絡できないところに追いやられたら生きる希望はあるのでしょうか。
はじめに、今日の説教箇所の「重い皮膚病」とあるところは、聖書本文では「らい病」という言葉が用いられています。聖書が「重いひふ病」と訳し直したのは、今から2千年前の医療が発達していなかった時代に、その病がらい病なのか重い皮膚病なのか分からないからという考えもあります。ただし忘れてはなりません。「らい病」は日本の歴史の中で極端な差別と偏見をもたれていたので、そのまま用いることに慎重になっています。
ハンセン氏病(らい病)は極めて感染率の低い病気ですが、一たび感染すると、末梢神経が冒され手足の指が欠け、目が見えなくなったり、ひどい場合には鼻がなくなって穴だけになる醜い症状となります。当時らい病者に罹ると、就職も縁談もみな不意になったそうです。家族はもちろん、親戚に至るまでその影響は及びました。それほど恐ろしがられたのです。突然の病気でそれまでの一切の仕事、地位、家族を失い、それだけでも無情で心掻き乱れる想いの所へもってきて、人間の尊厳まで奪われ、犬畜生のように扱われました。戦後70年以上経つ今日でも偏見は激しく、肉親の葬儀にも呼んでもらえなかったという人がほとんどです。たいていの場合死んだものとして扱われ、隔離されてから、故郷にお墓が作られている状態です。
そのような恐ろしい病気もしくは伝染性の強い重い皮膚病をイエス様が癒し清められるという奇跡は、その病気に罹っている人々にとっては大きな福音です。
このキリストの心は、重い皮膚病の人に言葉だけでなく、主自ら「手を伸ばしてその人に直接触れて」癒しておられることで、「愛の伝道」となっている点が特徴です。
マルコによる福音書との比較を見ると、病人がその後どうなったかとかではなく、あくまでも主イエスが何をなさろうとされたかということを著者のルカは強調していきます。ただ単に「イエスのうわさはますます広まった」とメシアの“しるし”の方に重点が置かれています。それは人々が待望していた真のメシア・真の救い主が現れたという強調でありその証明なのです。
重いひふ病が癒されたということは、明らかに病気の癒し以上に、らい病に象徴されている罪がきよめられることをメシアは望んでおられるということです。それこそが、この段落の主題です。「きよさ」というのは、神やキリストとの関係でとらえられるきよさです。清さのゆえに神に近づき得る状態のことです。それはつまり罪の赦しが動かせない事実であるという証明となります。しかも最も大切な真理は、きよさとはキリストご自身が望んでおられるという事実です。自分の醜さに嫌悪の感情を感じて、きよくなりたいと私たちは切望します。でも私たち以上に、キリストの方が切望されているということを覚えたいのです。その理由として、主はご自身の御手を伸ばして私たちに触られ、私たちの穢れと罪に感染することを恥としていません。主は私たちの救いのために罪人の一人となられました。
そうです、主イエスは、病人の最も苦しい部分をご存知で、私たちの罪人の救いのために、ご自身罪人と同じになられ、十字架にさえかかってくださいました。そのようにして、私たちに積極的にご自身の流された血潮を通してきよさを伝染させてくださったのでした。
この癒し、きよめは一般論ではありません。主の具体的な愛による真心からのきよめです。そうです。「わたしの心だ、清くなれ」とおっしゃられる方の宣言です。
ところでこの時、主イエスに出会った人の願いの言葉「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」という言い方は、決して消極的ではありません。むしろ私たちの人生は主の御手の内にあるという全面的な信頼、喜びも悲しみも主の御心からやってくるのだと捕らえるところの信仰であり、出発点であります。
次に「清くなれ」と主イエスの方から手を伸ばし、触れられたということをもう少しだけ掘り下げて考えてみましょう。らい病の伝染力に対する恐怖の強かったこの時代に改めて思うことは、主イエスの行動は驚くべきものです。衛生的かどうかということではなくて、宗教的に穢れているとみなされている人間に対して、清い神の子が直接手を触れているということこそ癒し以上に、一層大きな驚きとなります。
ところでこの時、この病人はとっさに手を引っ込めることすらできなかったようです。主の行動は間髪を入れない、躊躇しない接し方だったということです。罪深い者たちの罪を赦し、彼らを御傍近くに置き、共に生きてくださる救い主の恵みがここに明らかになっています。イエス様の忍耐は無限であるということが今日の箇所から明らかにされます。当時特別に穢れた者とみなされていた重いひふ病人にも、主は手を伸ばすことをためらうどころか、積極的に手を伸ばされました。どんなに穢れていると思われているような者にも、主は常に共にいてくださるということが明らかになっています。
このように、イエス様は罪人をそのままに放っておかれる方ではないということです。私たちの罪に対して、忍耐してくださるだけの方ではないということです。「よろしい、清くなれ」とおっしゃって積極的に近づき、触れ、癒してくださり、罪を赦す権威を持っておられます。そのように主イエスが忍耐されるのは、私たちをきよめるためだということです。主イエスは心からそのことを望んでおられます。罪を赦された者たちが、主と共に生きることによって、イエス様の感化を受け、罪から清められるためです。
主イエスと共にいること、イエス様から触っていただけることは、今日では祈りに対して聖霊なる神が働きかけることによってなされます。聖書の御言葉からイエス様の語り掛けを聴くことです。聖書を通して語り掛けてくださる主イエスによって、私たちはきよめられます。そのために主イエスが私たちのために、今も執り成しの祈りをし続けてくださっているからです。御霊なる神に祈り求めてくださっています。その主イエスに倣って、わたしたちはきよめられます。主に信頼して、完全にきよめられる日まで導いてくださる主に委ねて行くことができる幸いを心から感謝します。