2021年10月17日「福音賛歌Ⅷ‐アメイジング・グレイス」

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福音賛歌Ⅷ‐アメイジング・グレイス

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 8章35節~39節

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35節 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
36節 わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
37節 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
38、39節 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
ローマの信徒への手紙 8章35節~39節

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「福音賛歌Ⅷ‐アメイジング・グレイス」ローマ書8:35~39

いよいよローマ書だけでなく新約聖書の福音の頂点ローマ書8章の最終回となりました。

本日の御言葉は、まず「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう(35節)」、と問われて、キリストの愛からわたしたちを引き離そうとする理由が列挙されます。それが、「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。(35節)」、この苦難リストです。ここでパウロは、決して想像力を働かせて、これらの苦難のリストを作成しているわけではありません。これは、どれもこれもパウロが実際彼の伝道旅行中に味わったものばかりなのです(Ⅱコリント11:23~27参照)。

パウロは決して他人事のように、或いは思想レベルで、このリストをあげているわけではないのです。むしろ、艱難であろうが、苦しみであろうが、迫害であろうが、飢えや裸であろうが、或いは、危険や剣さえも、実際パウロをキリストから引き離すことが出来なかったことを実証しているのです。しかも、これはパウロが特別だからキリストの愛から引き離されなかった、というのではありません。ここで、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」と御言葉が言いますように、対象は「わたしたち」なのです。実は、本日の御言葉では、この短い箇所に「わたしたち」という言葉が7度も繰り返され、全て「わたしたち」が対象にして語られていることは明白です。キリスト者である以上、私たち全てが、このキリストの愛から引き離されることはあり得ない、これを断言するわけです。

それでもパウロは、「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。(36節)」、と詩編の御言葉を引用して、当時のキリスト者の現実に目を向けさせます。これは、バビロン捕囚によってバビロンの地に連行された信仰者が、謳った詩編です。つまりパウロは、新約時代の信仰者が、キリストのゆえに、ローマ帝国の領内において、バビロン捕囚と同じ憂き目にあっている、とこのように言いたいわけです。旧約のバビロンは、新約のローマ帝国であり、いつの時代も神の民はさらし者にされるのです。キリスト者であるがゆえに、この世で不当な目に会ったり、恥をかいたり、さらし者にされる、これは極めて普通のことなのです。むしろ、キリスト者が、「一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」、この御言葉とかけ離れた時、この御言葉と無関係になった時こそ信仰的な危機であるのです。十字架と復活は必ず一体的なのです。むしろ苦難が大きければ大きいほど、永遠の命の確信が強められる、これがキリスト教信仰ではありませんか。私たちの群れで悲しみや苦しみと無関係に信仰が与えられた方が一人でもおられましょうか。キリスト者である以上、必ず自分の十字架が与えられているはずです。

しかし、ここでは、この状態からの大逆転が謳われています。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。(37節)」 「一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」、とされる以上、そのまま殺されることさえあったわけです。しかも、ひどい場合、それは闘技場で見世物にされて野獣と戦い、噛み殺される、という大変惨めなもので、敗北の姿そのものでした。しかし、それでも尚、ここでは勝利が約束されているのです。しかも、ここで言われているのはただの勝利ではないのです。この「輝かしい勝利」、これは新約聖書でここにしか見られない珍しい言葉です。これは、「~を超えて」、という前置詞と「勝利する」、という言葉が組み合わされて出来た合成動詞でありまして、勝利を超えた勝利、とでも言いましょうか、大勝利を得る、勝って余りある、このような意味です。最初期のキリスト者にとって、傷だらけにされて息を引き取り、変わり果てた仲間の姿は、決して敗北者ではなかった、むしろ勝利者、大勝利をして天に凱旋した誇らしい姿であったのです。私たちの時代は、野獣と戦わされることはありませんし、拷問を受けて傷だらけにされることもないでしょう。それでも、これから先、私たちの群れからも大切な兄弟姉妹が変わり果てた姿になって、次々と天に召されて行かれます。しかし、それもまた勝ちて余りある姿であり、キリスト者である以上、「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」、この約束は何一つ違わないのです。

その上で最後に再度、私たちをキリストの愛から引き離す理由が列挙されます(38、39節)。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も」、これは、全ての人間に共通な時間的、そして空間的な枠組みである、或いは、私たちの人生観世界観の枠組みであるともいえましょう。要するに私たち人間が知りうるすべてのことです。私たちをキリストの愛から引き離そうとする理由はなんと多いことでしょうか。私たちを取り囲み、私たちの知りうるすべてのことが、私たちをキリストの愛から引き離そうとする力ともなりうるのです。しかも、ここで列挙されているものに共通していることは無秩序な力であり、人間が頑張って戦える相手にはならないことです。しかし、その全てが束になってかかってきても、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」、とこのように宣言してパウロは、この福音賛歌の結論とするのです。それでも尚「キリスト・イエスに結ばれている」ことにはなんら変わりがないからです。キリストに結合されている以上、私たちがどうあがいても何ともならない力でさえ、「神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない、輝かしい勝利」が約束されている、我勝ちて余りあり、パウロはこの言葉をもって、福音賛歌を謳い終えました。結局パウロにとって、大切なことは「キリスト・イエスに結ばれている」この真理であったのです。そしてこの真理こそがパウロにとってアメイジング・グレイスであったのです。このローマ書8章の福音賛歌は、かつてキリスト教の迫害者であったパウロのアメイジング・グレイスでありましょう。

amazing grace・・・、「驚くべき恵み」、しかし、amazingというこの言葉が示すその驚きは、surprisingとは少し違います。surprisingは不意を突かれてびっくりする、そう言う驚きのニュアンスですが、信じられないという気持ちは含まれません。しかし、amazingという言葉は、信じられない驚きであり、もともとは人を困惑させるような驚きを示す言葉でした。実にキリスト教信仰は、困惑させるほどの信じ難い驚きなのです。不意をつかれて驚くような代物ではないのです。信じられないことを信仰する、これがキリスト教信仰なのです。それだけ、キリストの恵みは強烈なのです。

アメイジング・グレイスという讃美歌をご存知だと思います。これは18世紀の終わりに、ジョン・ニュートンというイギリスの牧師が作詞した歌で、今でも愛され、多くの有名なシンガーによってカバーされています。若い日奴隷商人であったジョン・ニュートンが、奴隷を船で輸送中、船が転覆するほどの大きな嵐に遭い、奇跡的に命拾いした経験から作られた歌です。「驚くべき恵み、私のように悲惨な者を救って下さった」とこの歌は始まります。これは全てのキリスト者に共通するamazingではありませんか。しかし、その後の歌詞は少しずつ違ってもよいのではありませんか。キリスト者の数だけ、amazing graceは謳われるはずです。十字架の主イエスは、このつまらない私を一対一で大切に救ってくださったからです。一人一人のキリスト者の生涯そのものがアメイジング・グレイスです。