2021年10月10日「福音賛歌Ⅶ‐覆すことのできない恵み」
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福音賛歌Ⅶ‐覆すことのできない恵み
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- 新井主一 牧師
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ローマの信徒への手紙 8章31節~34節
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聖書の言葉
31節 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
32節 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
33節 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
34節 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
ローマの信徒への手紙 8章31節~34節
メッセージ
説教の要約
「福音賛歌Ⅶ‐覆すことのできない恵み」ローマ書8:31~34
ローマ書だけでなく新約聖書全体の福音の頂点と言われていますローマ書8章が、本日からいよいよエピローグ部分へと入って行きます。この31節から、最後の39節までの御言葉では、これ以上ない勝利の歌として福音賛歌が謳われます。この部分は、語りつくせない恩恵に溢れていますので、今週と来週の2回に分けて大切に教えられたいと思います。
本日の御言葉は、最初に示されます「神がわたしたちの味方である(31節)」、この命題が結論であり、34節までの部分でこれが真理として証明されていく、という構造になっています。
まず「神が私たちの味方である」、これは、神が「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方(32節)」であることから最も具体的に証明されます。キリストの十字架は、神の愛の頂点であり、最大の犠牲です。それに比べれば、私たちに与えられる永遠の命や、神の国のあらゆる財産でさえ、全く取るに足らないものでしかないのです。先週の御言葉の28節で謳われています「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」この私たちに与えられています絶大な祝福でさえ、キリストの十字架に比べれば、ほんのおまけに過ぎないのです。
実に私たちの救いは、大から小への結論、より勝ったものからより劣ったものへの約束なのです。もうすでに十字架という最も偉大な救いの恵みを与えられたうえで、それよりは小さなものが約束されている。これが十字架の救いの秩序なのです。
さらに、「神がわたしたちの味方である」、この証明は続きます。
「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。(33節)」
ここで、神に選ばれた者たち、とありますのは当然私たちキリスト者です。パウロが生きたこの時代は、ローマ帝国が世界帝国として君臨していました。このローマ帝国の支配は、軍事力や土木の技術は勿論ですが、それに勝るとも劣らないすぐれた法律体系によって支えられていました。歴史学的な視点からは、ローマ法はギリシャ哲学やキリスト教と共に、ヨーロッパの文明の土台になったとされています。そう言う時代背景もあって、当時ローマの法廷には圧倒的な権力が委ねられていたのです。ですから、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」、これは非常に現実的で重大な問であったはずです。現に、この後多くのキリスト教徒が、皇帝崇拝を拒んだことを法廷で訴えられて殉教していきました。むしろ、神に選ばれた者たちであるキリスト教徒が、何時訴えられても不思議ではない時代が始まっていたのです。或いは、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」、これは戯言のようにしか聞こえなかったのではないでしょうか。どうしてパウロはこのような問いかけが出来たのでしょうか。
実は、パウロ自身が何度も訴えられた経験があるのです。この「訴える」、という言葉は、新約聖書で7回しか見られない珍しい言葉でありまして、ローマ書のここで一度だけ使われる以外は、全て使徒言行録、しかもパウロが法廷に訴えられる場面で使われているのです(使徒言行録26:7参照)。パウロは、実際当時の公の裁判制度の下で幾度なく訴えられてきたのです。その被告人の男が、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」、とこのように言ってはばからないのです。どうしてでしょうか。 それは、「人を義としてくださるのは神(33節)」だからです。
パウロは三度に及ぶ伝道旅行を終え、その伝道旅行中に苦心して集めた献金をささげるために帰ってきたエルサレムで、逮捕されてしまいました。そして、それから彼は、殉教の死が与えられるまで囚人という立場で生活しました。この世的には被告人、囚人、それがパウロの最終的な身分でした。実にその現実の中で、「人を義としてくださるのは神なのです」これを証したのがパウロだったのです。
彼は、先にローマの教会にこのローマ書を書き送って、数年後ローマの地に囚人として上陸しました。その彼の姿は、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」の正反対です。しかし、訴えられて、囚人として連行されても尚十字架の福音を雄々しく語り続けたパウロの姿ほど「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。」この御言葉を雄弁に証したものはなかったのではありませんか。神が味方である以上、惨めな一人の囚人には、万軍の主がおられる、天の精鋭部隊がついているからです。
囚人としてローマに上陸したこの伝道者のみすぼらしい姿が、ローマのキリスト者にどれだけの勇気を与えたでしょう。「神に選ばれた者たち」であるキリスト教徒が、何時訴えられても不思議ではない暗黒時代の先駆けに、パウロは訴えられても、殉教しても尚、「人を義としてくださるのは神」である、この信仰を一歩も譲らないことで、この御言葉の真理を証したのです。
本日の御言葉では、「だれが」という言葉が繰り返されてアクセントになっています。「だれがわたしたちに敵対できますか(31節)」、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。(33節)」「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう(34節)」そして、次週の箇所の35節の最初でも、「だれが」、と繰り返されます。これは、この世におきまして、だれもわたしたちに敵対しないとか、だれも訴えたりしないとか、或いはだれもわたしたちを罪に定めるような真似などしない、ということではありません。むしろだれでも、私たちの敵となりうるのです。それどころか、「だれがわたしたちに敵対できますか」と御言葉が語られる只中で、私たちは、信仰者に敵対する勢力に囲まれている、これが現実なのです。しかし、その現実の中で尚「だれがわたしたちに敵対できますか」と賛美するのがキリスト教信仰ではありませんか。
10月の最後の日は、500年前に宗教改革が始められた日でありまして、この月に入りますととりわけ私たちは宗教改革の信仰に思いを馳せます。マルティン・ルターは、1517年10月31日にヴテンヴェルクの教会の門戸に95か条の提題を掲げて宗教改革の口火を切ったその4年後、ヴォルムスの国会に呼ばれ、皇帝の面前で自説の撤回を迫られました(1521年のことですから、丁度500年前。)しかしルターは、「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。我ここに立つ。神よ、助けたまえ。」と自分の立場を明確にして撤回を拒絶しました。彼もまた敵に囲まれ、訴えられ、罪に定められようとしている現実において、「だれがわたしたちに敵対できますか」この御言葉に立ったのです。それは、ルターは神が味方であり、覆すことのできない恵みを確信していたからです。
古の信仰者は、「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない」と謳いました。パウロもルターもその後のキリスト者も同様に謳いました。神が味方であったからです。
終わりの時代であります今、その役割は私たちに委ねられています。今こそ私たちの出番です。
私たちもまた、今やキリスト教信仰四面楚歌の現実の中で、謳おうではありませんか。
「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない」、共に覆らない恵みを証しつつ。