2020年05月17日「新しいエルサレムへの旅立ち」

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新しいエルサレムへの旅立ち

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
使徒言行録 21章27節~36節

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聖句のアイコン聖書の言葉

七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた。群衆は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめた。千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねた。しかし、群衆はあれやこれやと叫び立てていた。千人隊長は、騒々しくて真相をつかむことができないので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かなければならなかった。大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである。使徒言行録 21章27節~36節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約 「新しいエルサレムへの旅立ち」使徒言行録21:27~36

先週からこの使徒言行録講解は、新しい文脈に入りました。ここから鎖につながれて福音宣教に仕えるパウロの姿が描かれていきます。そして、本日の御言葉は、十字架から最も遠い場所になっていたエルサレムに入城した十字架の使徒パウロが拘束される記録です。

騒動は、エフェソからやってきてパウロの顔をよく覚えていたユダヤ人の勘違いから始まりました。当時エルサレム神殿の聖域にはユダヤ人しか入れませんでしたが、彼らは、パウロが、「ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった(28節)。」と勘違いし、大騒ぎし、これが町中の大騒動にまで発展しました。

五旬祭期間であった当日、警備を固めていた神殿駐在のローマ兵が駆けつけこの暴動を止めたのですが、「千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた(33節)。」このようにパウロは拘束されてしまい、そして、今、過去迫害者でキリスト者とみるや男女問わず縛り上げていた男が、都エルサレムで縛られ、ここから彼は束縛された男として、生きていくことになるのです。「二本の鎖で縛るように命じた」、ここからパウロの新しい歩みが始まるわけです。縛られた福音宣教者、それがこれからのパウロなのです。

 おそらくパウロ本人もこれからどうなるかなんてわかりませんし、今この時が新しい歩みの始まりだなんて微塵も感じていないでしょう。ただ、どうなってしまうのだ、と混乱し、困惑し先の見えない状態です。しかし、その混乱し、困惑し、先の見えない状態でさえ、神の導きであり、神のご計画は何も違わず実現されているのです。

私たちは、御言葉を持っております。ですから、パウロ以上に、いいえ格段に神の奇しきご計画の全体を知っております。今、私たちは、混乱し、困惑し、先の見えない状態に置かれています。しかし、そこにも新しい歩みが用意されていること期待できるのです。

 本日の箇所で私たちに与えられております大切な真理は2つあります。

 一つ目は、「それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた(30節)。」ここでパウロを境内から引き出した後、門はどれもすぐに閉ざされた、とあります。エルサレム神殿の聖域に至る門がことごとく閉ざされたのです。彼らは福音宣教者を聖域から追い出し、門を閉ざした。つまり、これをもってエルサレム神殿は、福音と無関係である建物となったのです。

 エルサレム神殿は、福音に対して門を閉じたのです。その点で、この「門はどれもすぐに閉ざされた」という記事は、非常に重要です。

先週の記事でも世界宣教の扉を開いたパウロと、その扉を閉じていたエルサレムのユダヤ人の姿が描かれました。ここでは、さらに象徴的に福音に扉を閉めたエルサレムが示されているのです。そして、今新しい歩みを始めたパウロは、エルサレム神殿を追い出されたわけです。彼は、異邦人世界に福音を宣教師ながら、エルサレムを忘れたことはありませんでした。行く先々の伝道地で、エルサレムのために献金を集めました。パウロにとって神の都エルサレムであったのです。その都から彼は締め出されたわけです。

 つまり、ここから始まるパウロの歩みは、新しいエルサレムへ向かう旅なのです。

二つ目、ここから束縛されたパウロの歩みが始まります。しかし、先ほども申し上げましたように、これも主なる神のご計画の中で行われていました。パウロ自身も束縛されて死が近づく頃に、ようやくそれを悟って行きました。

 「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです(フィリピ1:12~14)。」このように、パウロが縛られていることを通しても、福音宣教が前進していることをパウロは証するのです。そして、エルサレムを追い出されたこの伝道者は、実に、このフィリピ書で「我らの国籍天にあり」と叫ぶのです(フィリピ3:20)。

 彼の探していた新しいエルサレムのゴールは天である、そのように彼は獄中から天を仰ぐのです。そして、聖書は、パウロが目指し今旅発つ、新しいエルサレムを最後に描きます。

 本日の招きの詞で与えられました黙示録21:1~4「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」これが新しいエルサレム、真のエルサレムです。

 さらに「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである(22節)。」ヘロデのこしらえた大理石の神殿がなんと空しく見えることでしょう。神殿は神とキリストである、パウロが、そして今私たちが目指す新しいエルサレムの神殿は、父なる神と、御子キリストなのです。ローマ軍によって跡形もなく崩された神殿ではなく、永遠から永遠までも全知全能の神が私たちの住まい、新しいエルサレムの中心なのです。しかも、この神殿の門は閉ざされることがありません。「都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである(25節)。」

 福音に門を閉ざしたエルサレム神殿の余命はおよそ10年でした。しかし、私たちの目指す神の都新しいエルサレムの門は閉ざされることがない。永遠に閉ざされることはないのです。本日前奏で与えられました讃美歌355番の2節はこう歌います。

 「うつくしの都エルサレムは、今こそ降りてわれに来つれ。主ともにいませば尽きぬ幸は、きよき河のごと湧きてながる。」私たちは今パウロと共に御言葉によって新しいエルサレムへ旅を続ける神の民であります。この旅には多くの困難がありましょう。悲しみも涙もありましょう。しかし、私たちにエルサレムの門が閉じられることはありません。

 それどころか、「主ともにいませば尽きぬ幸は、きよき河のごと湧きてながる」、これが「我らの国籍天にあり」、と歩む私たちの天国に至る道であります。