2021年09月19日「福音賛歌Ⅳ‐神の子の希望」

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18節 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
19節 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
20節 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
21節 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
22節 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
23節 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
ローマの信徒への手紙 8章18節~23節

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説教の要約

「福音賛歌Ⅳ‐神の子の希望」ローマ書8:18~23

  本日の御言葉は、冒頭の節の、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。(18節)」この部分が表題のような機能をしていまして、これが次の節から説明されていくという構造になっています。

 大切なのは、ここでは、人間だけでなく被造物全体が現在の苦しみに呻いているという聖書の理解です。「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて(21節)」、という以上、今この時は、全ての被造物は、滅びへの隷属にあるわけです。これが聖書的な自然界全体の理解です。

ここで「はっ」、と思わされるのは、自然に対する理解についての聖書と私たち人間との乖離です。聖書には「大自然」みたいな表現は一切ありません。実は、自然という言葉も旧約聖書で5回、新約では8回程度しか使われず、それも「自然の関係」とか、偶像を警戒して祭壇を作る文脈で「自然のままの石」のような使用例、或いは物理的空間を示す目的で「自然界」、という表現は見られます。

しかし、聖書には、私たち人間を包み込むような大自然的な意味では、自然という言葉は使われないのです。私たちは、いつの間にか「大自然に抱かれて」、のようなことを言いますが、実はこれは聖書的には間違いです。私たちは、創り主である主なる神に抱かれているのでありまして、自然に抱かれているのではありません。「大自然」、実はこの言葉が偶像崇拝に傾いています。偉大なのは神お一人であって、自然は、その被造物に過ぎません。聖書の言う自然は大自然ではなくて、ただの被造物なのです。

 むしろ、パウロは、私たちが大自然とつい言ってしまう被造物が、滅びへの隷属にあってうめき声をあげていることに気が付いていたのです。しかし、さらに大切なのは、それでも尚この呻きが、死の苦しみではなくて、「産みの苦しみ」である(22節)、ということなのです。ここに虚無に服している被造物全体の希望があるのです。そしてこの希望は、私たち人間をも含めた壮大なものであることが、ここから示されていきます。

「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。(23節)」

 ここで、「“霊”の初穂をいただいているわたしたち」、という表現がありますが、これは、聖霊なる神様が私たちの内に宿ってくださっている現実を示したものです。しかし、聖霊が体の中に住んでくださっている以上私たちは、すでに神の子とされているはずです(14~16節)。

 ところが、ここでは、まるで「神の子とされること」がおあずけになっているように語られているのです。どうしてでしょうか。私たちが、“霊”の初穂をいただいている、すなわち聖霊が宿ってくださっていることは、何ら変わっていないのであり、つまり、私たちが、神の子とされていることに変わりはないのです。つまりここでは、神の子とされているわたしたちが、神の子とされることを待ち望んでいる、という矛盾が生じているのです。

 しかし、この矛盾は、つまり、から始まるすぐ後の文章で解消されます。「神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」、これです。ここから神の子とされているわたしたちが、神の子とされる、という矛盾に二つの回答が出されます。

一つ目は、神の子とされているわたしたちが、神の子とされる、それは、この体が完全に贖われることである、ということなのです。今までも繰り返し申し上げてまいりましたように、この時代には物質は汚れているが霊は聖い、と主張するグノーシス主義者が幅を利かせていました。彼らの中には、聖霊による恍惚状態を強調する熱狂主義者もいて、聖霊に満たされた途端に救いが完成したかのように吹聴し、信徒たちの大きな躓きとなっていました。

 彼らによれば、霊という次元の救いだけで十分なわけですから、その場合肉体はどうせ汚れているということで、性的堕落を中心とした快楽主義へと信徒を向かわせるサタンの罠となりました。しかし、聖書の言います救いは、私たちのこの肉体を含めた魂と体全体の救いです。パウロはそれをここで強調しているのです。聖霊が私たちの内に宿ってくださっても、私たちは地上を去るまで罪を犯し続けます。この私たちの肉の弱さが、完全に贖われる、それがここで言われている体の贖われることに他ならないのです。聖霊が宿ってくださり、聖化の歩みを始めたキリスト者は神の子です。しかし、神の子にされているのと、神の子になるのとは違います。つまりここでは、厳密に申し上げれば、神の子とされているわたしたちが、完全に神の子となるその時を待ち望むことが言われているのです。

 二つ目は、「心の中でうめきながら待ち望んでいます」、この待ち望む、という言葉です。これは、19節にも使われていまして、本日の御言葉のキーワードで、この言葉によって神の子の意味が大きく変わるのです。それは、この待ち望む、これはキリスト再臨の時の待望を指す大切な言葉だからです(Ⅰコリ1:7、ヘブライ書9:28参照)。

つまり、神の子とされているわたしたちが、神の子とされる、という矛盾を解く決定的な真理はキリストの日なのです。この地上において、神の子とされながら、それでも尚神の子とされる日を待ち望む、それはキリストの日への希望なのです。そしてこれが神の子の希望なのです。

しかし、この神の子の希望は、今神の子とされている私たちに限定されたものではありません。「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。(23節)」ここで、被造物だけでなく、と言われています。それは、被造物もまた神の子の希望に呻いているからです。さらに21、22節に戻りまして、「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」なんというスケールでしょうか。“霊”の初穂をいただいているわたしたちが抱いている神の子とされる希望、それは、被造物全体の希望である、ということです。

 私たちの肉体も含めた自然界という物質全体がともに呻き、贖いが完成する日を待ち望んでいる。救いが心や魂といった霊的次元の問題だと騒いできた手合いがなんとちっぽけに消えていくことでありましょう。キリストの日の救いは、霊的世界、物質的世界全体の救いであり、全てが贖われ、極めてよく再創造される思いもよらない喜びの日、解放の日なのです(ヨハネ黙示録21:1~4参照)。

 私たちもパウロと共に、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。(18節)」、どうしてこう言わないでいられましょうか。

 私たちが福音の頂から眺める風景は地平線では終わらないのです。

 その風景は、宇宙へと未来へと展開し、どこを眺めても希望という輝きを放っているのです。

 さらに、その先にあるキリストの日まで、信仰という望遠鏡を使って展望できるのです。