2021年08月21日「聖化のクライマックス」
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聖化のクライマックス
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- 新井主一 牧師
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ローマの信徒への手紙 7章14節~25節
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聖書の言葉
14節 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
15節 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
16節 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
17節 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
18節 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
19節 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
20節 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
21節 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
22節「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
23節 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
24節 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
25節 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
ローマの信徒への手紙 7章14節~25節
メッセージ
説教の要約
「聖化のクライマックス」ローマ書7:14~25
本日の御言葉は、6章から始まりました私たちキリスト者の聖化の歩みについて教える部分の最終回であります。同時に、この聖化を教える文脈のクライマックス部分とも言える非常に大切な御言葉です。まず、「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。(14節)」とパウロは始めます。実は、これが本日の御言葉全体の要約であり、この後、苦悩に満ちたパウロの告白と言える文章が続きますが、それはこの節を説明するものと言えます。大切なのは、このパウロの告白は、決して過ぎ去った日の彼の姿ではなくて、まさに今このローマ書を執筆しているパウロの状態である、ということです。それが、律法が霊的なものであると知っているにも関わらず、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されている、という二律背反ともいえる自己矛盾の状態なのです。
この後パウロは、この自己矛盾の状態を詳しく説明し(15~21節)、その上で結論を出します。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。(22、23節)」、
「律法が霊的なものであると知っているにも関わらず、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されている」、というこの自己矛盾の原因と理由がここにあるのです。ギリシア語の本文では、この「罪の法則」の「法則」という言葉は、律法という言葉と同じです。 神の律法とは違う律法が自分の肉体にあって、それが自己矛盾を引き起こしている、ということです。私の中の二律背反は、神の律法と罪の律法が混在しているからである、それをパウロは冷静に見抜いているわけです。
ここでは、「内なる人」と言われている神の律法を喜んでいる心の法則が、罪の法則と戦っているわけなのですが、その肝心な「心の法則」が、「罪の法則」に太刀打ちできないという図式が示されています。「心の法則」は、戦いに敗れ、「罪の法則のとりこ」にされてしまっているのです。
この「心の法則」の「心」という言葉は、もともと理性や分別、或いは知能と訳される言葉です。むしろ「理性の法則」、と訳したほうがわかりやすいでしょう。つまり、理性とか分別のようなものは、罪に対しては全く役に立たないということなのです。パウロは、少年の日から、勤勉に律法を学び、当時のあらゆる学識をも習得していました。それが彼の理性のバックボーンとして生涯機能していたはずです。しかし、その理性は罪の前に見事に敗れ去ったわけです。
その時彼が叫んだ言葉が、24節「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」、聖書でこんなに惨めな叫び声がありましょうか。しかし、これが信仰の到達点にいるパウロの叫びなのです。パウロは、主イエスに見え回心するまで、自信満々で肩で風を切って生きていました。私はなんと正しい男だろうか、とはるばるダマスコまでキリスト者を迫害しに行く有様でした。ですから、パウロが苦しんだのは、回心前ではなくて、その後なのです。そして、信仰生活を続けて信仰者として成長すればするほど自らの罪に目が開かれ、最終的に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」、と叫ぶしか道がなかったのです。そしてこれが聖化のクライマックスです。聖化というのは、聖い自分に落ち着くのではなくて、惨めな自分の姿に呻くことであります。キリスト教の世界宣教の扉を開き、他の誰よりも伝道のために用いられた信仰の勇士パウロが聖化の頂点で叫んだ言葉は「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」であったのです。
ところがここで逆転が起こります。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。(25節)」、なんという大逆転でありましょうか。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と叫ぶしかなかった男が、次に発した言葉は、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」、これなのです。聖書を調べても、この24節と25節の行間ほど大きな逆転は見つかりません。この行間にイエスキリストの十字架と復活が実現しているのです。いいえ、この行間には分厚い聖書がそのまま一冊置かれているのです。なんと分厚い行間でありましょうか。パウロは、彼の理性と知性を総動員させて見事に罪に敗れました。しかし、それは決定的な問題ではなかったのです。彼には信仰があった。彼には御言葉があった。それがこの驚くべき逆転を引き起こしているのです。
実は、この25節の文頭には、接続詞のようなものは一切使わずに、神の恵みを示すカリス(χάρις)という言葉がまず置かれています。パウロは、非常に論理的に文章を組み立てる人で、接続詞が、彼のその論理を際立てる役割を担っていると申し上げてよろしいでしょう。しかし、この驚くべき逆転にあっては、接続詞は小細工のようなものになり下がり、神の恵みをまず叫ぶしかなかったのです。信仰の論客が論理を投げ捨てて、信仰一本で神を賛美しているのです。
そのうえで、パウロは、続いて最終的な信仰者の姿を言い表します。「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」、結局これは、14節で出された命題とその後告白されてきたこと(15~23節)の要約です。
キリストの十字架と復活の真理を信じる信仰によって救われたのにも関わらず、相変わらず肉では罪の法則に仕えているのです、とパウロは告白します。そしてこれが聖化なのです。先ほども少し触れましたが、聖化というのは聖い自分を見出すことではなくて、自らの惨めさに気が付くことであります。聖化とはキリストに似た者とされることである、と再三申し上げてまいりました。しかし、聖化のクライマックスにあるものは、キリストと似ても似つかぬ私であり、それを知ることであります。
私たちの日本キリスト改革派教会の創立メンバーの一人であります岡田稔先生は、救われてキリスト者になる前後をおたまじゃくしとカエルに例えて非常に鋭く語っています(キリスト者:岡田稔)。
「救われる以前の私は泥沼の悪臭にさえ無頓着なおたまじゃくしのようであったが、救われて洗礼を授けられ、立派なカエルになった。もうあの泥沼の悪臭ともお別れだ、と喜んで陸地に上がったのは良いが、あの悪臭はまだ漂っている、身体についた臭いを落とそうときれいな水で何度も洗ったが、その悪臭は取れないのである。今やあの泥沼の悪臭は自身の体臭であることに気が付いた。私自身がその悪臭の張本人である」、と先生は語っています。これが、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」という告白であります。実に、そこに聖化のクライマックスがあって、これほどキリストに近づける姿はないのであります。
そして、その聖化のクライマックスにある約束がローマ書の8章で語られる珠玉の御言葉なのです。
私たちは、ここまでローマ書の講解説教を続けてきました。その最高の恩恵が来週から始まります。この週私たちは、悔い改めて、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」という聖化のクライマックスに立って次週の礼拝に備え招かれましょう。