2021年08月08日「霊の新しさによって生きる」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1節 それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。
2節 結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。
3節 従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。
4節 ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。
5節 わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。
6節 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。
ローマの信徒への手紙 7章1節~6節

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説教の要約

「霊の新しさによって生きる」ローマ書7:1~6

ローマ書の講解説教は本日から7章にはいっていきます。ローマ書の6章と7章は、信仰によって救われた後の信仰者の生活である「聖化の歩み」について教えられていて、6章は、罪と聖化の関係、そしてこの7章は、律法と聖化の関係が描かれる、とこのように申し上げてよろしいでしょう。

本日の御言葉は、1~3節までで語られるこの世における法的な婚姻関係のたとえが、4~6節でキリストによる律法からの解放に適用され具体的に説明されていく、そう言う構造になっています。

ですから、パウロが、「キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています(4節前半)」、と言います時、これは2節で法的に示されていた、「夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです」、これをキリストとの関係に適用したものです。

この「キリストの体に結ばれて」、というのは、具体的には洗礼によるキリストとの結合を指します(6:5参照)。ここでパウロが言いたいことは、洗礼によってキリストと一体となった以上、もはや律法によって裁かれることはあり得ない、という律法からの解放です。

しかし、それ以上にここで強調されているのは、「それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。(4節後半)」このことです。私たちキリスト者は、洗礼によってキリストと結合されて、律法から解放されるだけではないのです。律法から解放されて何も起こらないのでしたら、死んだ夫である律法と共に死んでいるのと同じです。大切なのは、その後生きることなのです。律法から解放された私たちが、その後「死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになる」、これが大切で、これこそがキリスト者の聖化の歩みなのです。

しかし、ここで「わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」、と訳されていますこの「神に対して実を結ぶ」、の「神に対して」の部分は、ギリシア語のもともとの文章では文法的に、その前の「死者の中から復活させられた方のものとなり」、の「ものとなり」、と同じなのです。ですから、ここは「神に対して」ではなくて、「神のものとなり」、と訳すこともできまして、或いは、「神によって」、くらいに訳したほうが普通です。「わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」、と言いますと、私たちと神様との間に距離が生まれて、神様を喜ばす、神様の点数を稼ぐように思えてしまうこともありましょう。しかし、ここで言われているのは、「神に対して実を結ぶ」のではなくて、「神様のものとされて実を結ぶ」、或いは「神様によって実を結ぶ」、というあの主イエスのブドウの木のたとえと同じ真理なのです(ヨハネ15:5)。主イエスに結合されている以上、神様と私たちには距離はありません。そこにあるものは、距離(distance)ではなくて結合(unite)なのです。

 その上で、逆にキリストに結合される以前の神と離れて生きていた私たち罪人の姿が示されます(5節)。ここで大切なのはその状態にあった時、「罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き」、と言われているところなのです。この「五体の中に働き」、の働く、という言葉は、ギリシア語でエネルゲオー(ἐνεργέω)と発音し、あの英語のエネルギー(energy)の語源となった言葉です。大切なのは、パウロがこの言葉を使う時、それは、善きにつけ悪しきにつけ、人間ではどうにもできない霊的な力を表現するために用いているところなのです(エフェソ1:20、2:2、或いはⅡコリ4:12等参照)。この「働き」の前に、まるで人間は、その操り人形のように、無力にされてしまう霊的な力で、決して私たち人間がコントロールできるようなものではないのです。ですから、「罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、」と言います時、これは人間を隷属させて、死に追いやる罪の力であって、この「働き」の前に人間は無力である、とこのように聖書は言うのです。そして、実にこの罪の力と人間の無力さが、このローマ書7章の底流を流れる恐ろしい現実なのです(7:1~25)。

しかし、同時に、ここで、私たちを無力にさえしてしまう罪の力による「罪へ誘う欲情」も、私たちが、「死者の中から復活させられた方のものとなった(4節)」以上、もはや力を発揮しません。「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。(6節前半)」、と言われている通りです。ここで「しかし今は」、とあります。これは以前とは全く違う事態が起こった時にパウロが使う表現です(人間の罪を示してきた文脈が信仰義認に切り替わる3:21を参照してください。)。それだけ、私たちが「律法から解放される」、この事態が驚くべき逆転である、ということなのです。そして、これは、単にこのパウロの時代の信仰者の傾向であったというわけではありません。実に現代のキリスト者である私たちが抱えている問題でもありませんか。

私たちは、キリストの十字架によって律法の要求から自由にされ、赦されている、それはいつも教えられています。それでもやはり、律法を守れない自分を恥じていて、嘆いている私がいるのです。そして、信仰の戦いをすればするほど、それが良く見えてくるのです。殺すな、と言いつつ人を憎み、姦淫するなと諳んじては情欲を抑えられない私は一体何者なのか、と苦しむのです。パウロの時代も今も、愚直な信仰者ほど、苦しむのではありませんか。それは、信仰の戦いがあって初めてわかるのです。ところが、その戦いの最中にこそ、その闇の中にこそ、「しかし今は、」なのです。律法は、私を縛っていた、私は一つさえまともに律法を守れなかった、私はあがくのがやっとだった、その状態の私が、律法から解放されていますという福音の光に今照らされたのです。実に、私たちが、信仰者として失格だ、と落胆する時こそ、この律法から解放されていますという御言葉が響くのではありませんか。キリスト者として元気に前進している時ではなく、転倒し暗闇に隠れて嘆いている時にこそ。そして、大切なのは、さらに続けて「その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。(6節後半)」、と新しい生き方が示されるところです。

律法の字面は、私たちを罪に定め、死の判決を下します。これが「文字に従う古い生き方」です。しかし、私たちは、「“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっている」のです。この生き方をパウロはコリント書で、「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」(Ⅱコリ3:6)」、と適切に表現します。

私たちは、新しい契約であるキリストの十字架の福音を宣教するために用いられているからです。

さらにパウロは、この姿を「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(Ⅱコリ3:18)」と謳います。主と同じ姿に造りかえられていくという聖化の歩みは、私たちの力ではなく、主の霊の働きによるのです。そうである以上、私たちはもはや自分の弱さに嘆いたり、罪深さに恥じる必要はありません。それでも尚、主と同じ姿に造りかえられていくのですから。私たちがどのように、自分自身を卑下していても “霊”に従う新しい生き方は、聖霊の働きによって今その弱い者の中で実現しているのです(フィリピ1:6参照)。