2021年08月01日「神の賜物」

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聖句のアイコン聖書の言葉

19節 あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。
20節 あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。
21節 では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。
22節 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
23節 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
ローマの信徒への手紙 6章19節~23節

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説教の要約

「神の賜物」ローマ書6:19~23

本日与えられた聖書個所は、ローマ書6章の結論と言える御言葉です。

ここでパウロは、「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。(22節、)」、とローマの信徒たちが、聖なる生活の実を結んでいる姿を知っているのにも関わらず、「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。(19節)」、と蒸し返すような勧告から始めます。

どうしてでしょうか。それは、義の奴隷として献げて、聖なる生活を送るようになって初めて、かつての罪の状態に気が付くからです。暗闇にいる限り、最後まで暗闇であり、そこに光が当たって初めてその全貌が明らかになるのと同じです。ですから、ここであえて罪の奴隷と義の奴隷とを並べてパウロが示したいものは、キリストの光に照らされて明らかにされたかつての彼らの姿です。そして、大切なのは、救われる以前のその過去の姿を忘れてはならないということです。キリスト者である以上、過去の罪は全て赦されています。しかし、それでも尚私たちは、罪から救われたあの記憶を粗末にしてはならないのです。そのために神の御子キリストの血が流されたからです。この私でも救われた、というこの十字架の救いの恩恵を生涯讃え続けなくて、どうしてキリスト者と言えるでしょうか。

 もう昨年学び終えました使徒言行録でパウロは、ダマスコ途上でイエスに見え、迫害者から伝道者へと召し出された彼の救いの原点を繰り返し証しています(使徒9:1~19、22:1~16、26:12~18)。それだけでなく、ガラテヤ書でもダマスコ途上の出来事を詳しく証言し(ガラ1:13~17)、或いは、死の直前の牢獄で愛弟子テモテに宛てた手紙では、過去の迫害者という立場のゆえに「われ罪人の頭なり(Ⅰテモ1:12~17)」とさえ言い残しています。パウロこそは、殉教の死に至るまで、生涯救われた日の恵みを忘れず感謝し続けたキリスト者なのです。主イエスは、99匹の羊を残して、一人罪人が見つかるまで探してくださる方です(ルカ15:1~7)。私たちは、十把一絡げに救われているのではなく、一人一人主イエスの手によって救われているのです。その救いの御手を生涯忘れてはならないのです。私たちは、十字架の血に救われた日を思いおこし、初めの頃の信仰に立ち帰って、いつも悔い改めなければならないのです。

パウロは、その上でキリストに救われ、信仰生活を続けているこのローマの信徒たちに、「聖なる生活の実を結んでいます」、と言います。この「聖なる生活の実」の「聖なる」、という言葉が大切でありまして、この聖書の言葉から「聖化」という信仰告白の言葉が生まれたと申し上げてよろしいでしょう。もともと、この「聖なる」という言葉には「聖別する」、という意味があります。「聖別する」というのは、神のものとして取り分ける、そう言うことです。

 丁度、本日私たちは聖餐式に与ります。あの聖餐式のパンとブドウ酒は、特別なところで購入しているわけではありません。執事さんが、行きつけのお店で普通に売り場に並んでいる商品の中から選んで用意してくださっているのです。しかし、それを、礼拝の聖餐式で主イエスキリストが用いてくださるので、聖なるパンとブドウ酒となるのです。

私たちも同じです。私たちは、特別なパンでも神聖なブドウ酒でもありません。普通に陳列されたパンのように、どこにでもいる普通の罪人です。外見では見分けもつきません。かえって在庫処分品のように見えるかもしれない。しかし、主イエスが聖別してくださる、救いに取り分けてくださる、この私たちを用いてくださる、だから、私たちは聖なる者たちであるのです。

ですから、聖書が、「聖なる生活」、という言葉で示す聖化とは、私たちの倫理的な正しさの変化のようなものではなくて、主なる神様が私たちを選び聖別してくださる、この状態なのです。

私が聖くなるのではなく、私が聖くされる、罪深い私が聖別される、これが聖化の歩みなのです。

さて最後に、今まで6章で示されてきた罪の奴隷か、神の奴隷か、この議論の結論が示されます。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(23節)」

 「罪が支払う報酬は死です」、この報酬という言葉は、兵士に支払われる給与を示す言葉でした。罪という主人に仕えて戦ったその報いが死である、なんと愚かな結末でありましょうか。

しかし他方、「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」、とこのように約束されています。ここで大切なのは、神の報酬が永遠の命だ、とは言わないことです。そうではなくて、「神の賜物は」、とあえて言葉を変えているところなのです。

 何度か申し上げましたが、この「賜物」、という言葉は、ギリシア語でカリスマ(χάρισμα)と発音します。カリスマと言いますと、カリスマ性のような言葉から連想されるように、人を魅了するような独自性や、非凡な才能をイメージしがちですが、聖書的には全く違います。ギリシア語で恵はカリス(χάρις)という言葉でありますので、カリスマ(χάρισμα)というのはただ恵みによって与えられる神のプレゼント、そう言う意味です。ですから、「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」、と聖書が言います時、「わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」というのは、報酬ではなくて、神様から一方的にいただけるプレゼントである、という意味なのです。

 死は、罪に対する報酬として必ず与えられます。しかし、永遠の命というのは、私たちが勤しんだものに見合う報酬として与えられるようなちっぽけなものではないのです。神の御子、わたしたちの主イエスキリストの十字架の血が流された、それだけ高価なもの、それが永遠の命なのです。これがこのローマ書の6章全体の結論です。

この章は、まず「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか(1節)」、という福音とキリスト者の自由を曲解した立場が示され、そこから罪の奴隷か、神の奴隷か、という議論が始まりました。その結論が、「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(23節)」これなのです。つまり、「恵みが増すようにと、罪の中にとどまる」、この最初に示された福音とキリスト者の自由を曲解する立場が、大きな勘違いであることが最後に改めて指摘されているのです。

 そもそも、カリス(χάρις)という言葉で示される恵みというのは人間の意志や行為で増大できるような代物ではないのです。恵みとは、ただ神の御心によって値なしに私たち罪人に注がれるものであって、私たちがこしらえたり増大できるような恵は、ただの一つもないのです。

 むしろ、「恵みが増すようにと、罪の中にとどまる」、そこで増加するのは、恵みではなくて罪や汚れの類であり、その終点にあるのが、「罪が支払う報酬は死」というゴールなのです。

 私たちも以前は、そのゴールに真っすぐ向かっておりました。しかし、今私たちがたどり着く先にあるものは、「わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」、この神の賜物(プレゼント)なのです。