2021年07月18日「義のための武器」

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12節 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
13節 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。
14節 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
ローマの信徒への手紙 6章12節~14節

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説教の要約

「義のための武器」ローマ書6:12~14

先週の御言葉では「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(11節)」、と結論が出されました。本日の御言葉は、この結論に基づく勧告がなされています。

まずパウロは、「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません(12節)」、とこのように念を押します。私たちが神の決定によって、罪と無関係にさているのなら、どうして、さらに蒸し返すように言うのでしょうか。

 それは、神様は、私たちをロボットのように創られていないからです。神様が私たちを義としてくださった以上、私たちはすでに救いの中に入れられています。しかし、それは私たちの自由が規制されることによって与えられる救いではありません。天国は、檻の中に閉じ込めて、足かせをはめられて与えられるものではありません。私たちが救われて尚、罪を犯し続ける現実の中で、それでも尚、私たちは神の国に入れられているのです。この神様の計り知れない愛への応答として、「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。」とパウロは言うのです。聖化の歩みは、無風状態で行われるのではなく、罪を犯す誘惑にさらされながら行われていくのです。

さらにパウロは、「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。(13節)」と勧告します。この「あなたがたの五体」、とありますこの「五体」、という言葉が非常に重要です。文字通りこれは体の五つの部分で、頭、首、胴体、そして両腕と両足です。そして、この「五体」、これはギリシア語で、 メロス(μέλος)と発音しまして、実は英語のメンバー(member)の語源になった言葉です。人間の体には、それぞれの構成部分があり、それが組み合わさって一つの身体を作っている、そう言う理解です。ですから、ここでパウロが、「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません」、と言います時、罪が、身体の部分に起こす分裂を警告しているのです。神様に従って生きていきたいと思うのに、私の手が違うことをしている、私の目が、足が、罪の方に傾いている、罪に向かっている、口では立派なことを言っていても、身体では全くそれを証明出来ていない、それが私たちの現実ではありませんか。この五体、という言葉は、義と罪のジレンマにある人間の姿をよく示しているのです(7:22~24参照)。

そして、その場合、この私たちの五体は、「不義のための道具」とも「義のための道具」ともなりうるのです。この道具、と訳されている言葉は、新約聖書で6回使われまして、そのうちパウロが5回用いているのですが、他のところではすべて武器、と訳されています。ここでも、「不義のための武器」、「義のための武器」と訳したほうがわかりやすいでしょう。ここで迫られる選択は、罪に仕えるか、神に仕えるか、そのいずれかである、ということなのです。

 そのうえで、この勧告の理由が示されます。「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。(14節)」これが私たちの五体が、「不義のための武器」でなくて、「義のための武器」であるための理由です。

「罪は、もはや、あなたがたを支配することはない」、この「支配する」という言葉は、「主である」、とも訳せます。罪が、あなた方の主人でないのに、どうしてあなた方はなおも死に仕えることが出来ようか、ということです。そして、それを言い換えますと「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる」、という事態になるわけです。「律法の下」、それは、この私が律法を遵守して救いを求める場所です。律法を守れなければ、罪に定められる、そう言う立場です。ですから罪と無関係にされる立場と正反対です。しかし、私たちは、その場所から解き放たれて、「恵みの下」にいる、これが今まで繰り返し示されてきました私たちの立場です。 「恵みの下」、それはキリストの許であり、十字架の許でもあります。そして、これが実現している場所が教会ではありませんか。

 ここでパウロが、「罪は、もはや、あなたがたを支配することはない」、そして、「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる」、とこのように、「あなたがた」を繰り返していることに注目したいのです。パウロは、すでに12節で、「あなたがたの死ぬべき体を」、13節で、「あなたがたの五体を」、とここでも「あなたがた」、と繰り返しています。実に、本日の御言葉全体はあなたがたへの勧告なのです。このあなたがたは教会です。教会こそは、あなたがたであり、キリストの五体であり、もはや、罪に支配されることがなく、律法の下ではなく、恵みの下にある場所です。

 パウロは、コリントの教会にこの大切さを訴えています。

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(Ⅱコリ12:12)」私たち一人一人が、キリストの身体の部分であり、それぞれがメンバー(member)なのです。それゆえ、私たちは、それぞれが、「義のための武器」に他ならないのです。

そして、私たちそれぞれが「義のための武器である」、と言います時、大切なことが二つあります。

一つは、それぞれ与えられている働きは違う、ということです。

 同じコリント書で「すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょうだから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。(Ⅰコリント12: 19~21)」、と聖書が言いますように、私たちが「義のための武器」として用いられている時、それは丁度体の部分の役割が違うように、私たちがそれぞれ与えられている役割も違うのです。祈る者、奏楽者、賛美する者、御言葉を語る者、或いは病床にある者、全てが、「義のための武器」として用いられているのです。「お前は要らない」と言われる者は一人もいないのです。

 二つ目、私たちが、「義のための武器」として用いられている時、その武器の能力のようなものは、全く問題にならない、ということです。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。(Ⅰコリント12:22)」と御言葉が言う通りです。私たちに与えられた賜物がいくら貧弱に見えましても、私たちの働きがどのように小さく思えましても、それは問題ではない。むしろ、武器とは言えないような働きが、「義のための武器」として用いられるのです。

 「かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。(13節)」このように、聖書は、決して、「義のための武器」の完璧さなどは求めておりません。大切なのは、「五体を義のための道具として神に献げなさい」、ただこれだけです。

大切なのは、神にささげることなのです。主なる神様が、私たちの貧しい働きを求めておられるからです。そして神が用いてくだされば、私たちの「義のための武器」は、どのような要塞さえも破壊する力とされるのです(Ⅱコリント10:4参照)。