2020年05月10日「十字架から最も遠い場所」
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十字架から最も遠い場所
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- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
使徒言行録 21章17節~26節
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聖書の言葉
わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。
翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。
パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。
これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。
この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。
いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。
だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。
この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。
また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」
そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。
使徒言行録 21章17節~26節
メッセージ
「十字架から最も遠い場所」使徒言行録21:17~26
本日の御言葉は、パウロが約8年ぶりにエルサレムに戻り、(エルサレム会議から第三回目の伝道旅行終了の期間がおよそ8年)エルサレム教会の長老たちと再会する場面です。
ここでパウロの報告は、「パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した(19節)。」このように、ナレーションを通してしかも短く記録されています。それに比べてエルサレム教会の長老たちの回答は、そのまま長い記事で記録されています。彼らは、パウロの報告を聞いて、開口一番、「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。」このように、自分たちの信仰生活の中心に律法を据えています。ここがまず問題なのです。
幾万人ものユダヤ人が信者になった、それはユダヤ教から、キリスト教に回心した、という事実のはずです。しかし、その中心にあるのは、主イエスの十字架ではなく、律法であるのです。「皆熱心に律法を守っています」、これはユダヤ教徒でもいえます。むしろ律法を守れない罪人であるにもかかわらず、十字架の贖いによって律法から解放されたのがキリスト者です。マルティン・ルターが「わが妻」といってこよなく愛したガラテヤ書には、このキリスト者の自由が満ち溢れております。ガラテヤ書4:4~7「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」このように、律法の支配下から自由にされたばかりでなく、神の子とされたのがキリスト者です。律法を守れなくても救われるのです。
さらにガラテヤ書5:4「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」律法を守れなくても救われるどころの話ではない、それでも尚律法を守ることで救いを求めるのなら、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います、と聖書は言うのです。キリストが私たちの身代わりに律法を守り、そして律法を守れない私たちの身代わりに十字架で死なれて、その罪を解決してくださったからです。罪人でも救われるのです。いいえ、罪人が救われる、これが福音です。これが、パウロの福音宣教の土台であり中心です。
これを8年間叫び続けてエルサレムに戻ったパウロに、皆熱心に律法を守っています、という言葉はどう聞こえたでしょうか。「冷水を浴びせられる」とはこういうことではないでしょうか。
それでも、ヤコブやこの長老たちは、少なくとも、パウロが「モーセから離れるように教えている(21節)」などとは思っていなかったことは確かです。ですから、パウロの疑いを晴らすのを目的に長老たちは提案します(22~24節参照)。そして、エルサレム教会の長老たちは、加えて異邦人についての彼らの理解をパウロに伝えています。「また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です(25節)。」実はこれは、8年前のエルサレム会議での決議事項と全く同じなのです(使徒言行録15:19、20の内容とほぼ同じです)。つまり、この8年間、エルサレム教会と異邦人との関係がほとんど進展していないのです。これが問題なのです。
主イエスの救いは、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、何の区別もなく無条件に差し出されています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです(ガラテヤ書3:26~28)。」キリストの救いに漏れる者はいないのです。民族、性別、身分、そのようなものは救いとは無関係なのです。これが福音の真理です。しかし、エルサレム教会は、この全人類に与えられた福音を、エルサレムという狭い場所に閉じ込めていたのではありませんか。8年間ずっと、頑なに。パウロが世界宣教の扉をこじ開けていた時に、エルサレムは、その扉を閉じていたのです。本日の箇所で、パウロは一言もしゃべっておりません。ナレーションで示されているだけで、聖書はここでパウロにセリフを与えないのです。それによって、ここで最も大切なものが抜け落ちていることが明らかされているのです。
本日の箇所は、エルサレムの長老たちの言葉がほとんどの部分を占めています。しかし、そこに主イエスの名前がありましょうか。十字架が一言でも語られておりましょうか。いいえ、そこにあるのは、律法遵守であり、割礼であり、慣習であり、誓願であり、モーセです。これらは福音ではありません。そして、これがエルサレムなのです。彼らは、十字架の贖いを信じていたはずです。だからユダヤ教からキリスト教に回心したのです。しかし、十字架で救われたはずなのに、彼らの中心にあるのは十字架ではなく、モーセであり律法であったのです。それがエルサレムであったのです。まさに主イエスの十字架と復活の舞台となった現地エルサレム。しかし、そこは、フィリピより、エフェソより、いいえコリントより、十字架から遠い場所になっていたのです。十字架の使徒が、十字架から最も遠い場所に入場した時、一体どうなるのでありましょう。それを、次週の御言葉は明確に示します。
さて、私どもの群れは十字架から遠いですか、近いですか。ゴルゴダの丘から見れば、地の果ての果てにあります私たちのこの場所は、十字架から遠いですか近いですか。
私たちは、ここがこの場所が十字架に最も近いことを何の疑いもなく回答できます。
それは、私たちの御言葉の説教で主イエスの名が、主イエスの十字架が常に中心にあるからです。何よりも、主イエスが、「私は世の終わりまであなたがたと共にいる(マタイ28:20)」と約束されたからです。そして、私たちが、今離れ離れでありましても、同じ聖霊に導かれ、同じ御言葉を今与えられ、今跪いて祈る時、ここには真の交わりがあるからです。
その時こそ、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。(詩編133:1)」この旧約詩人の詩が実現し、十字架の主イエスに私どもは結合されて、十字架は、今ここに、この場所に立っているのです。