2021年06月27日「死の支配から恵みの支配へ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

17節 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
18節 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
19節 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
20節 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
21節 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。
ローマの信徒への手紙 5章17節~21節

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説教の要約

「死の支配から恵みの支配へ」ローマ書5:17~21

私たちが伝道していくうえで、大切なことがあります。それは、福音でありますキリストの恵みは、思想ではないということです。死は現実で、全ての人が死という厳然たる事実に真剣に向き合っているからです。この死という現実からの救いを成し得ない救いは、救いとは言えないのです。私たちは、神の言葉が、死に対するこの世の人の悲しみと恐れを打ち砕き、救いに導く力であることを確信した時、福音宣教に仕えることが出来るのです。

本日の御言葉では、「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。(17節)」とこのようにまず死の支配の逆転が示されます。これは先週の御言葉の「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません(15節)」これが具現化されたものです。そしてこの支配の逆転が「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。(18節)」さらに、「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。(19節)」と繰り返し説明されていくわけです。

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになった」、或いは、「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下された」、と聖書が言います時、アダムだか何だか知らないけど、顔さえ見たことのない奴が犯した罪とどうして関りがあるのだ、そのように思われる方が多いのではないでしょうか。しかし、どの様に不平不満をつぶやいても、罪と無関係な人は一人もおりません。そして、どの様につぶやいても、必ず死という現実から逃れることは出来ないのです。実は、「顔さえ見たことのない奴が犯した罪を負わされる」、この恨み言は的を射ているのです。同じ論理で「顔さえ見たことのない方が死んでくださったので、私が生かされる」、となるからです。

私たちこそ、どう文句を並べてみても、理屈をこねて見ても最後の審判で助かる見込みなどなかったのです。不従順なのは一人の人だけの問題でしょうか。いいえ私たちこそ不従順です。しかし、イエス様は「十字架の死に至るまで従順でした(フィリピ2:8)」、と十字架に至るまで従順であったのです。その結果、私たちの不従順は不問に付され、そればかりか不従順なはずの私たちが、正しい者とされる、この逆転が起こったのです。これでも尚文句がありましょうか。「アダムの奴がしくじったから、そのとばっちりを食ってしまった」、と言える者がおりましょうか。言えません。そのアダムのとばっちりをは、私たちではなくてキリストに向けられたからです。むしろ私たちは、そのとばっちりから免れた上に、自分の罪までキリストに負わせてしまった。文句どころか、感謝しかないはずです。

 さて、このように、最初の人アダムから始まった死の支配に対するキリストの恵みによる逆転が示されてきましたが、今度は、「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました(20節)」、と律法が登場いたします。律法が与えられて、ますます人間の罪深さに光が当てられ明確に映し出されたのです。律法は、人間の罪をことごとく暴いて、まるで下手人のように縛り上げて神の法廷に連行する役割を持つからです。ところが、「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」とパウロは言います。律法によって全ての罪が暴かれ神の法廷に連行された時、キリストによって無罪宣告がなされたからです。そして、その罪科が多ければ多いほど赦しも大きくなるわけです。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」とはそういう意味です。

 律法が恵みとなるのは、律法が罪人をキリストへと導く時なのです(ガラテヤ書3:23、24参照)。つまり、大切なのはキリストの許に行くことです。罪の重さとか、自分の姿とか、そのようなものは全く問われない。もう少しましになったら、教会に行ってみようか、相応しくなったら洗礼を考えてみようか、それは間違いです。ありったけの罪を背負って、背負えなかったら両手にぶら下げてでもキリストのもとに駆け込んで額ずく、これが悔い改めであり、そこにだけ恵は与えられます。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」、これはそういうことであり、罪も汚れもあるままキリストのもとに立ち帰った時に与えられる思いもよらぬ恩恵なのです。

 最後に結論が出されます。「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。(21節)」「罪が死によって支配していた」、これがこの世の現実です。先週から繰り返し申し上げていますように、死は全ての人に与えられた厳然たる事実です。全ての人が死という現実に真剣に向き合っています。しかしここでその支配が見事に逆転しております。

ここでは、「罪が死によって支配していたように」、とこの「ように」、が非常に大切です。「罪が死によって支配していたように」、すなわち、死という現実から全く逃れることができないように、「恵みも義によって支配しつつ」なのです。つまりもはや恵みの支配に移された以上、その支配から逃れることは出来ない、絶対救われる。死なない人が一人もいないように、キリストの恵みが満ち溢れたところには、救われない人はたった一人さえいない、そう言うことです。これは、もはや手の付けられない救いなのです。人が死ぬことが確実であると同様、十字架の主イエスを信じた時、私たちの救いは確実であるのです。これが、死の支配から恵みの支配へと移される恵みであります。

 しかし、今私が死の支配から恵みの支配へと移される、と申し上げます時、実はこの表現は厳密には正確ではありません。

 もう一度「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。(17節)」この最後の部分の、「支配するようになるのです」、この主語は、「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は」、であります。つまり私たちキリスト者です。私たちは、単に「死の支配から恵みの支配へと移される」でめでたしめでたしではありません。私たちが支配するのです。キリストの命によって私たちが御国を支配する、王様となる、キリストと共に神の国を治める、この思いもよらぬ栄光が約束されているのです。キリスト者の死とは、この栄光への入口なのです。

 この世の人にとって、家族や友人の葬儀ほど辛いものはありません。しかし、キリスト者は、死という現実において尚、この御言葉に立つことによって福音を証することが許されているのです。

聖書は思想ではありません。神の言葉です。私たちは、神の言葉が、死に対するこの世の人の悲しみと恐れを打ち砕き、救いに導く力であることを確信した時、福音宣教に仕えることが出来るのです。聖書が現実を語っておりましても、私たちの信仰が現実でなければ、たちまち聖書の言葉が思想のように聞こえてしまうからです。私たち自身が死の現実にさらされた時こそ、御言葉に立って、死の支配に苦しむこの世に恵みの支配の福音を永遠の命を証する機会なのです。