2021年06月06日「神の愛Ⅰ~優れたものから劣ったものへ~」
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神の愛Ⅰ~優れたものから劣ったものへ~
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ローマの信徒への手紙 5章5節~11節
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聖書の言葉
5節「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
6節「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」
7節「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。」
8節「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
9節「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」
10節「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」
11節「それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」
ローマの信徒への手紙 5章5節~11節
メッセージ
説教の要約
「神の愛Ⅰ~優れたものから劣ったものへ~」ローマ書5:5~11
「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(5節)」この節は、先週の箇所の結論でありながら、本日の箇所の命題のような役割もしておりまして、非常に大切です。
この節で、「神の愛」、と使われておりますこの「愛」、という言葉は、聖書的に非常に重要な言葉でありまして、ギリシア語で「アガペー(ἀγάπη)」と発音いたします。これは、聖書で現された神の愛を表現するための言葉で、ローマ書では初めてここで使われます。
その通り本日の聖書箇所は、この神の愛である「アガペー」を説明する非常に大切な箇所で、「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(8節)」この御言葉に神の愛が端的に示されています。パウロは、「わたしたちがまだ罪人であったとき」、と言います。ですから、これは、私たちが、憐れみの欠片さえ受ける価値のない者であったのにもかかわらず、「キリストがわたしたちのために死んでくださった」、という事実なのです。これがキリストの十字架であり、そのまま神の愛なのです。
「善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません(7節)」と言われていますように、私たち人間は、自分の命と同じ価値があるものを見出せば、或いは命を投げ出すのかもしれません。
しかし、神の愛は逆です。神は、私たちが何の価値もない罪人であることを知りつつ、最愛の御子を十字架の死に渡されたのです。わが子をならず者のために死に引き渡す親がどこにおりましょう。
しかし、それが、十字架なのです。私たちが理解できないこの愛が神の愛なのです。つまり、神の愛である「アガペー」は、十字架の出来事がなければ、誰一人知ることさえできなかったのです。
ですから、聖書以外の古典ギリシア語文献にこの言葉は見られません。旧約聖書で預言されてきて、十字架によってはじめて、「アガペー」は、この世に啓示されたのです。
然り、この十字架の愛は、預言者イザヤやエレミヤたちによって既にその輪郭が語られておりました。私たちはその御言葉の一つで今日この礼拝に招かれました。「わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。(イザヤ43:4)」ここに十字架の愛の萌芽があります。このイザヤによって語られた神の愛の対象は、旧約のイスラエルの民です。神様に愛されて、エジプトの奴隷状態から救い出され、律法を与えられ、国まで与えられたのにも関わらず、彼らはその愛を裏切り、堕落し、偶像崇拝を繰り返しました。その結果イスラエルは、滅ぼされてしまいました。しかし、その滅ぼされて捕囚の憂き目にあえいでいるユダの民に、このメッセージは与えられたのです。何の価値のない貧しい罪人どころか、恩を仇で返すような裏切り者を神は「わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛し」、とおっしゃる。これが十字架の愛なのです。私たちも、神に愛される価値も資格もありません。旧約のイスラエルの民は、私たちの姿とよく似ております。しかし、それは問題ではないのです。その愛される価値も資格もない罪人を愛されるのが神だからです。
求道者で、ひたむきな方に限って私はまだ洗礼を受けるような資格はない、とためらうことがよくあります。しかし、それは間違いです。洗礼を受ける資格のある者などどこにもおりません。救われる資格のないものが救われる、だから福音なのです。だから恵みなのです。ですから、救われたいと真剣に思ったのならば、むしろ洗礼は受けなければならないのです。救われたい、と思うこと自体が、「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている(5節)」何よりの証だからです。
さて、その上で、この十字架によって実現した神の愛によってもたらされた、私たちの立場が説明されます。「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(9節)」、これが私たちの立ち位置で、この「神の怒り」は、最後の裁きの日に明らかにされ、全ての人間が裁かれます。しかし、私たちは、「わたしたちはキリストの血によって義とされた」以上、もはや無罪判決が確定しているのであります。
年を重ねていきますと、少しずつ身体の色々な機能が衰えてきまして、大きな病を患う方もおられます。生涯の日々の最後に、痛みを抱え、苦しみながら生きていかなければならない、そう言うキリスト者もおられます。しかし、キリスト者である以上、どんなに苦しみを与えられましても、地上の死を越えた時、そこにあるのは無罪判決であり、復活の身体であり、永遠の命であり、御国の世継ぎであります。
改革派教会の信仰告白でありますハイデルベルク信仰問答は、キリスト者の死について次のように教えています。 「私たちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪との死別であり、永遠の命の入り口なのです。(問42)」これが、キリストによって神の怒りから救われた私たちに与えられております約束です。なんと偉大な約束でありましょう。それゆえ、キリスト者は、地上におけるあらゆる困難にありましてもこの約束に支えられ、また死の恐怖からも解放されているのです。
しかし、本日の御言葉で語られていることは、この偉大な約束をさらに超えております。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(8、9節)」
これは、より劣ったものからより優れたものへの結論ではありません。逆です。これは、より優れたものからより劣ったものへの結論です。「わたしたちがまだ罪人であったとき、わたしたちはキリストの血によって義とされた」、これはより勝ったものであり、「キリストによって神の怒りから救われる」、これはより劣ったものです。キリストと無関係に生きていた私たちが、十字架の血で救われた。ましてや、キリストによって義とされた今、私たちが救われて永遠の命や御国の世継ぎをいただかないはずはないのです。つまり、「キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」、ここに神の愛の頂点があるのです。キリストを十字架につけられるほどに、私たちを愛した神が私たちを救わないはずがない。十字架が実現した今、私たちに与えられないものは一つも残っていないのです。私たちの希望であり、楽しみでもある永遠の命も、御国の世継ぎも十字架に比べればはるかに劣ったものなのです。偉大な約束以上に偉大な出来事がすでに起こったのです。ですから、キリスト者は、今が苦しくても、天国の希望があるから我慢できるというだけではないのです。その苦しい只中で、すでに神の最高の愛をいただいてしまっているのです。キリスト教信仰とは彼岸的なものである以上に、現実なのです。それが十字架で示されたのです。
歯を食いしばって、汗と涙を流して歩むこの世の只中で、それでも尚、神の最高の愛に喜び祝う、天国の祝福を味わう、闇の中に光がある、それが私どもキリスト者の幸いです(詩編23)。